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日刊サイゾー トップ > エンタメ > お笑い  > 傑作ドキュメンタリー『エレパレ』の凄み

『ザ・エレクトリカルパレーズ』はアキラでありゴドーである──ニューヨークがたどり着いたお笑いの果ての“ドキュメンタリー”

ゴドーであり、桐島であり、アキラである

『ザ・エレクトリカルパレーズ』はアキラでありゴドーである──ニューヨークがたどり着いたお笑いの果てのドキュメンタリーの画像3
「エレパレ」の物語のキーにもなるTシャツ(写真提供 ニューヨーク Official Channel/OmO)

 しかも、これだけ多くのインタビュイーがエレパレについて語っているのに、話を聞けば聞くほど、結局エレパレがどんな団体だったのかがわからなくなっていく。最初に抱いた「イタいイベサー的な団体」という印象は早い段階で取り下げざるを得なくなり、最後の最後まで印象が二転三転していくのだ。

 本作において、エレパレという団体、あるいはエレパレという概念は、「ドーナツの穴」だ。その心は、「事物の中心にある空虚」。サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』で最後まで登場しない人物“ゴドー”であり、『桐島、部活やめるってよ』で最後まで姿を見せない桐島と同じだ。

 ここに「観測者の立ち位置によって、見え方も意味合いも全く変わってしまう」という属性を付与するなら、概念としての「エレパレ」は、物理学的な意味でのブラックホールだ。「それ自体の出自や存在意義は不明ながら、周囲の人間の運命を圧倒的に変えてしまう存在」とするなら、『AKIRA』の「28号」ことアキラにもたとえられる。

 また、団体としてのエレパレは、虚構たる映画でいうところの、いわゆる「マクガフィン」だ。さも重要そうな小道具として描かれ、語られ、登場人物の動機づけや物語を駆動させるトリガーとして機能しながら、それがなんなのかは最後まで明かされない。

 まさしく、「中心にある空虚」。ドーナツがドーナツであるためには、なにもない「穴」がむしろ必要不可欠であるという、禅問答のようなゾーンに踏み込まざるを得ない。

ゲシュタルト崩壊からの人類補完計画

『ザ・エレクトリカルパレーズ』はアキラでありゴドーである──ニューヨークがたどり着いたお笑いの果てのドキュメンタリーの画像4
「京都 鵺 大尾」(「木曽街道六十九次」の内、歌川国芳画)

『平家物語』には鵺(ぬえ)という妖怪が登場する。猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾。したがって、暗闇でその一部だけを目撃した者たちは、それぞれ別の全体像を想像してしまい、証言が一致しない。

 ラスト、そんな鵺のようなエレパレの輪郭が、あるいは空虚なる「穴」の実体が、ついに白日の下に晒される。……と思いきや、怒涛のように連呼された「エレパレ」という言葉がその意味を解体され、ゲシュタルト崩壊を起こし、我々は再び混乱の渦に叩き落とされる。

 ネタバレになるので、このあたりの説明は抽象にとどめたい。ちなみに筆者は、『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画(1997年版『Air/まごころを、君に』で描かれたもの)を思い浮かべた。「エレパレ」は大いなるものの一部でありながら、全体。空虚でありながら、本体でもある──。

 しかも、エンドロール後の「もうひと爆弾」によって、我々は「ある不安」にさいなまれる。これは、ゴーストライター問題で糾弾された作曲家の佐村河内守をめぐるドキュメンタリー『FAKE』の結末にも匹敵する、静かなるどんでん返しだ。

 この「ひと爆弾」は、ドキュメンタリーという形式そのものに対する挑戦とも受け取れる。いや待て、そもそも本作は本当にドキュメンタリーだったのか? 「穴のあいたドーナツ」全体が、もっと大いなる何かの「穴」である可能性だってある。名前だけが登場するも話を聞けていない17期生の(以下略)。

高度に発達したお笑い

 このフィルム(あえて、フィルムと呼ぶ)が、ニューヨークという漫才コンビのYouTubeチャンネルコンテンツとして作られたことは、実に象徴的だ。

 秀逸な漫才は、流れるような掛け合いを一瞬たりとも緩めることなく、観客を意外な結末へと一気に運んでいく。演者に腕があれば、「その演者すら想定していない結末だった」と観客に錯覚させることも可能だ。

 そして神がかった漫才は、「もはや何がおもしろくて笑っているのかわからないのに、とにかく笑ってしまう」という魔法を、観客にかけてしまう。

 前者は圧倒的な「展開力」、後者は「中心にある空虚」だ。『ザ・エレクトリカルパレーズ』の備える秀逸さと、完全に同じではないか。

『2001年宇宙の旅』で知られるSF作家アーサー・C・クラークは、「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と言った。お笑いもドキュメンタリーも、虚と実の配合比率を観客に伏せた状態で発信者が仕掛ける知的なコンゲームである以上、「高度に発達したお笑いは、ドキュメンタリーと見分けがつかない」

 そしてこの文章は、「お笑い」と「ドキュメンタリー」を入れ替えても、おそらく成り立つのだ。

稲田豊史(編集者・ライター)

編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が大ヒット。他の著書に『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)などがある。

いなだとよし

最終更新:2021/01/03 12:00
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