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日刊サイゾー トップ > カルチャー > 映画  > 【劇場】“表現者ワナビー”の痛い恋

又吉直樹原作映画『劇場』が描く“表現者ワナビー”の痛い恋──クズ男と都合のいい女の顛末

自分を搾取した男の事後ケアまでする女など、現実に存在するのだろうか?

 永田が野田に語った、沙希の「笑いながら、本当は怒っていた」というある行動は――永田自身はその重大性に気づいていなかったが――実に示唆的だった。すなわち沙希の「笑い」は、その瞬間の彼女の感情と連動していない可能性が高い。

 実際に持っている感情を外に出せないことが続けば、心が壊れて当然。やがて沙希は酒浸りとなり、感情と表情が次第に「無」となっていく。

 それなのに、沙希は最後まで永田を擁護する。

 沙希は、自分を鬱に叩き落とした張本人である永田に対し、驚くべきことに「永くんなんにも悪くないんだもん/勝手に年をとって、焦って変わったのは私のほう」と自分を悪者にするのだ。

 また、永田はラストで、沙希との日々を戯曲化して自分の劇団で上演するという信じがたい暴挙に出るが(交際相手とのイタい生活を作品に昇華するとは、どこの太宰治だ)、客席で見ていた沙希は「ごめんね」とつぶやく。

 しかし、自分を搾取した男の事後ケアまでする女など、現実に存在するのだろうか? 作家・又吉がこじらせ文化系男子を代表して、その願望を投影しただけの、現実にはあり得ない人物像なのではないか? 表現者ワナビーの罪深い生き様と犯した罪を、懺悔するフリして美化するべく、かつ彼自身が保身を決め込むために創造した、都合のいい非実在女子だったのでは?

 そんな疑問を友人の30代女性(映画業界)にぶつけてみたところ、「私は違うけど」と前置きしつつ、こう返してきた。

「でもなー、こういう自己評価の低い女って、自分のことを好きだった男の作品に、自分という存在が刻まれると、精神的に充足しちゃうからなー。もの書いてる男の作品って、彼の人生そのものじゃん。そこに自分がモデルの人物が登場したら、絶対喜んじゃうし。とか、あとがきにイニシャルで謝辞述べられたい的な? 悲しい女よのう……」

 その友人は、念を押すようにもう一度言った。「私は違うけどね」と。

「月刊サイゾー」12月号より転載

稲田豊史(編集者・ライター)

編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が大ヒット。他の著書に『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)などがある。

いなだとよし

最終更新:2021/01/01 11:00
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