アフターコロナの映画製作をポジティブに示唆したヨーロッパ企画──ライター・西森路代が選ぶ2020年のミニシアター邦画3選
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『ミセス・ノイズィ』主人公だけが正しいわけではない
『ミセス・ノイズィ』は、小説家であり、一人娘の母親である主人公の吉岡真紀が、引っ越しした先で隣に住む若田美和子から嫌がらせを受ける、というところから物語がぐいぐいと進んでいく。このあらすじを聞けば、かつて話題となった騒音おばさんのことを思い出すかもしれない。しかし、実在する人物について書くのは、様々な意味で難しいものである。だが、むしろこの映画は、一方的な視線からのみ報じられることの暴力性にもたどり着くような話にもなっていた。
真紀にとっては、隣人の美和子の行動は不可解なことばかりだ。朝っぱらから布団を叩いてうるさいし、真紀の一人娘を連絡もなしに家に連れ込み、夜になるまで帰らせないこともあった。そんなことが、小説家としてもスランプの彼女のイライラをかきたて、隣人への不信感を更に募らせていく。
物語というのは、どちらか一方の人を主人公としてしまったら、その人からの目線で善悪が決定して進んでいく。しかし、この物語に限っては、主人公から見たものがすべての正解とは言えないということがわかる。
こうした、主人公だけが正しいわけではない、という物語を昨今はよく見るようになった。例えば、アカデミー賞6部門でノミネートされた2017年の映画『スリー・ビルボード』でも、ひとりの人物の中にある、善意と悪意がころころと入れ替わっていく様子を見て、衝撃を受けた。深田晃司監督の『淵に立つ』でも、そんな衝撃を味わった。
また、1984年の映画『ベスト・キッド』の続編であるアメリカのテレビシリーズ『コブラ会』では、『ベスト・キッド』では悪役と描かれていたジョニー・ロレンスからの目線で描かれることで、より『ベスト・キッド』の登場人物たちの生き方が見えてくるようになった。
誰からの目線で描かれるかで、見え方がまったく違ってくるし、誤解や思い込みで争っていてはいけないというのは、混とんとしてきた今、まさに必要なことでもある。この『ミセス・ノイズィ』では、小説家の主人公の真紀と、隣人でお騒がせな美和子の両方からの目線が見えることで、反発しあっていたふたりの女性の気持ちが交じり合い、シスターフッドのようなものに昇華するところも見せてくれる。
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