『梨泰院クラス』は本当にハッピーエンドか?──共依存関係のセロイとイソ、その未来を憂う
#ドラマ #韓国 #稲田豊史 #梨泰院クラス
以下、ネタバレを含みます
そんなイソは視聴者の望み通りセロイと結ばれる。恋敵であるスアは中盤以降、イソの完全なる噛ませ犬的な役割しか与えられず、イソの圧勝。完全無欠、絵に描いたようなハッピーエンド。しかし、最終回を見終えると疑問が残る。セロイはイソを人生の伴侶として、果たしてこの先うまくやっていけるのだろうか?
物語終盤を思い出してみる。セロイとイソの両想いがいよいよ確定か? というところでイソは言う。「わがままを言っても許してもらうには、(セロイにとって)必要な存在にならないと」「好きだと言うには資格が必要だから」。驚くべきことに、イソはセロイに愛してもらうためには“業務上必要な右腕”にならなければと明確に宣言し、完璧に実行するのだ。
これは、まずい。イソはセロイから必要とされること、ただその点だけに自分の存在価値を見いだしているからだ。このような「パートナーを世話することで抱く愛情≒依存」は、いずれ高確率で「愛情の名目でパートナーを支配」に至る。共依存フラグが立ちまくりだ。セロイはセロイで、仕事上有能なイソへの高評価を、イソにほだされていつの間にか愛情に変化させてしまう。尊敬や感心と愛情の取り違え──そんな基本的なミスを盛大にやらかす主人公、目も当てられない。
イソとセロイに平穏な結婚生活はきっと望めない。それはイソが直情型のソシオパスでメンヘラ気質だから、というだけが理由ではない。物語大詰め、イソを救うために重傷を負い意識の混濁したセロイが、他界した父親と想像上の会話を交わし、それを挟むようにイソとの会話を回想するくだりに、そのヒントがある。
イソは、ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の「何度でもいい。むごい人生よ、もう一度」の一節をしみじみ「分かる」とつぶやき、「もし来世があるなら、私は生まれてきたくなかった」とセロイに言う。これだけなら、単にセロイと現世で出逢ったことを喜んでいるだけだ。
場面転換、セロイは父親に15年間つらかったと言って泣く。そして、このまま父親のもとには逝かず、父親への恋しさを胸に抱いて生きていくと告げる。それを受けた父親の最後の言葉はこうだ。「そういうものだ、セロイ。それが人生なんだ。生きてさえいればすべてが何てことない。本当だ」
「何度でもいい。むごい人生よ、もう一度」に同意・体現しようとするイソと、「生きてさえいれば全てが何てことない」と説く父親。これは、セロイとイソの未来の、何を暗示しているのか?
セロイにしてみればイソの言葉は酷だ。15年間も臥薪嘗胆でようやく復讐を果たせたのだから、もういい加減平穏な日々を過ごしたいのではないのか。しかし、イソはそれを許さないだろう。イソは、セロイと共に「やるかやられるか」なつらい状況を切り開いていくデスゲーム的緊張感、すなわち「むごい人生」の中にこそ、ハイスペックソシオパスとしての生きがいを見いだしていたのだから。イソはセロイの欠落を埋める役割を課されることでしか、この世に生きている価値を見いだせない。実際、イソはセロイに感化されるまでは「地球が滅びればいい」「生きるのが面倒」と口にするような、極まった厭世家だった。
しかもイソは同じ回で「代表(セロイ)は絶対に私を失望させないの」と第三者に言い切っている。一生、イソを失望させてはならないという、セロイにかけられた恐ろしい呪い。イソは苦しみながら常に全力疾走しているセロイを愛しており、そうでないセロイを許せるほどの寛容さを持ち合わせていない。セロイはイソが伴侶である限り、未来永劫平穏など訪れない。そう考えると『梨泰院クラス』のラストは本当にハッピーエンドだったのか、甚だ疑問だ。
イソのような「賢いが、生きるのがつらい女子」に惹かれてしまう文化系中年男性は少なくない。そんな女性と結婚してしまった結果、地獄のモラハラ夫婦生活を何年も送り、命からがら逃げ出して離婚したバツイチ男性に、筆者は取材で何人もお目にかかった。そのひとりは一時精神を病み、人生の数年間と何百万円というカネをドブに捨てたにもかかわらず、今では毎日幸せを噛み締めているという。理由を聞くと、こう返ってきた。
「あの時の地獄に比べたら、今は生きてさえいれば御の字です」
認めよう。たしかに、“生きてさえいれば”人生はそれだけで価値がある。ただし、共依存パートナーとの共同生活は除く。
※「月刊サイゾー」9月号より転載
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