『麒麟がくる』岡村隆史が演じる“忍びの者”を考察!「伊賀忍者が家康を逃した説」は嘘か誠か
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家康の逃亡を手助けした“伊賀”の正体
当時の口語でいう「伊賀」とは、大坂近郊の河内地方から、三重の伊勢あたりといったかなり広い地域を指していたと考えられています。ですから、家康が「伊賀越え」をしたところで、伊賀地方を根城とする伊賀の忍者が活躍できるとは限らない。
また、「家康の逃亡を本当に手助けしたのは誰?」となると、それは伊賀忍者ではなく、当時、甲賀武士と呼ばれていた土着の武士集団であったと考えるほうが自然なのです。
逃亡成功から1週間後の天正10年6月12日付で、徳川家康は甲賀武士の首領格の和田定教あてに礼状を書いています。また家康は後に、甲賀武士たちの中から約20家を旗本として、つまり上級武士として召し抱えています。
それでは「服部半蔵は……?」となるのですが、「半蔵」とは、服部家の当主が代々襲名する“通り名”なんですね。当時の服部半蔵こと、本名・正成は実在の人物ではありますが、彼は徳川家康と同じ三河の岡崎生まれ、岡崎育ちですから、伊賀の山道を知り尽くしているハズがないのでした。文字数の問題で詳しく語ることはできないため、詳しくは、渡辺俊経氏による実証研究『甲賀忍者の真実 末裔が明かすその姿とは』をお読みいただければ……と思います。
これらの研究をあくまで無視し、通説に従っていたのであれば、『麒麟』で岡村さん演じるキャラクターの名前は三河の農民・菊丸ではなく、三河出身の服部半蔵あるいは正成だったかもしれない、と筆者には思われます。もしかして、最終話で菊丸の正体が服部半蔵だったとなるかもしれませんが(笑)。
まぁ、岡村さん演じるキャラが菊丸より服部半蔵のほうが、われわれも盛り上がれたでしょうが、「伊賀越え」で伊賀忍者も服部半蔵も活躍はしていないという近年の研究成果を、大河ドラマ制作陣も無視することはできなくなったという“オトナの事情”が反映されているように思われてなりません。
それではいつから「神君伊賀越え」に服部半蔵や、伊賀忍者が当たり前のように登場するようになったか? というと、これは大正時代の歴史小説がきっかけです。
田村梨紗氏の論文『忍者・服部半蔵の誕生』によると、大正時代に忍者ブーム(第一次)があり、そこで「神君伊賀越え」に忍者が登場するようになるのですが、この時の忍者は豊臣家が放った家康の敵で、忍者から家康を守ったのはのちの大僧正・天海和尚だったそうです。
それが昭和10年~30年代の忍者ブーム(第二次)において、はじめて家康を守護する武士にして忍者の元締めとして服部半蔵の名が現れるようになったというのです。ちなみに忍者・服部半蔵が黒い忍者服で登場した最初の例は、『カムイ伝』で知られる漫画家・白土三平の作品『忍者旋風』(1959年=昭和34年)だったとか。
いずれも比較的最近の話で驚きですが、それらが大人気を博した結果、現代日本では忍者といえば服部半蔵、そして例の黒装束というイメージが定着していったと考えられるのです。
そもそも、「神君伊賀越え」がここまで虚実入り乱れるカオスな状態になったのは、徳川家康や、甲賀武士の和田定教をふくむ伊賀越えの当事者たちが、この事件について一切言及をしなかったことが原因です。家康のような武将にとって「逃げる」という行為は名誉あるものではなく、それゆえ関係者たちは沈黙したまま亡くなってしまったのでしょう。
現代に伝わる「神君伊賀越え」についての最初の記録は『石川忠総留書』です。しかし、これは事件から約60年も経過した後、家康一行の同行者だった大久保忠隣の子・石川忠総が、(父が故人ゆえに)親族などに聞き込みを行った末に作成したもので、一次資料とは呼べません。記録には信憑性を疑われる箇所もあります。
当時の将軍は徳川家光で、彼は祖父・家康のことを尊敬していました。それゆえ、曖昧になっている伊賀越えについても詳しく知りたいと願ったのでしょうが、闇に消えた事実を家光が知る術はありませんでした。
こうして見ていくと、菊丸の名前の由来や、その背負っている背景についても想像以上に深い気がしてきましたね。最終回まで残りわずかですが、彼の活躍が楽しみです。
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