『麒麟がくる』一方その頃、徳川家康はうんこを漏らしていた!? 歴史に残る“脱糞伝説”を紐解く
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家康うんこ問題、本人の耳にも届いていた?
脱糞伝説の発生源は、江戸時代初期、つまり17世紀中盤に書かれた『三河後風土記』という創作物なのですが、この書物は江戸時代後期、第11代将軍・徳川家斉の命を受けた学者たちの手によって“改訂”され、『改正三河後風土記』(天保8年)に正されました。
重要訂正ポイントだったのが、やはり脱糞伝説でした。『改正三河後風土記』には、その脱糞伝説を「妄説」として削除したという、徳川幕府からの公式コメントがわざわざ記されていますからね。
『三河後風土記』にあった、「大久保忠佐、神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよし」の部分が問題視されたようです。
この問題箇所、言葉を補って現代語にすると「一言坂の戦いで負けた家康公が浜松城に逃げ帰った際、彼の馬鞍にうんこがあるのを見つけた家康公の側近の大久保忠佐という武将が呆れ、“うんこを漏らしながらお逃げになっていたとは!”と家康公を罵倒した」というシーンです。
しかし、幕府は「一言坂の戦い」に家康公自らは出陣しておらず、うんこの漏らしようもないので、この部分は『改正三河後風土記』では削除しましたと言いはりました。これが江戸後期の徳川幕府の公式見解なのですが、残念ながら「一言坂の戦い」は、武田軍の追撃をかわし、浜松城まで家康が逃げ帰るための退却戦だったので、本人が戦場にいなかったというのはおかしな話です。
ここから読み取れる背景は、家康公の脱糞伝説はいつのまにか日本中に広まっており、それが天下の将軍・徳川家斉様のお耳にまで届き、悩ませるほどになっていたので、御用学者たちが下手なウソをついて誤魔化したというところでしょう。インターネットのない時代なのでそういうウソも通用したのですね(笑)。
しかし、よく考えてください。鞍の上にうんこがあること自体が、現実ならば超常現象です。フンドシや鎧をすり抜け、うんこが鞍にテレポーテーションしたことになりますし、それ以外で鞍の上にうんこできるとすれば、“ノーパン”で騎乗している必要が出てきます。どう考えても怪しいのです。
ちなみに大久保忠佐に脱糞を指摘された徳川家康が、「これは味噌だ」と言い訳したというバージョンまでありますが、こちらは完全に出所不明です。おそらく20世紀になってから、歴史小説などで作られた話ではないでしょうか。うんこがどういう経緯で馬鞍に出現するかを考え、論理的に怪しいと思った作者が、ソレっぽいものとして戦場での携帯食だった(焼き)味噌を思い出し、それが漏れたということにしたと思われます。よけいに話が怪しくなっていますが(笑)。
それにしてもなぜこんな奇怪な話が、三方ヶ原の大敗の前哨戦にすぎなかったはずの「一言坂の戦い」に盛られていったのでしょうか。味噌の話は置いておいて、『三河後風土記』の筆者(氏名不詳)に限って言えば、一言坂と三方原をワザと取り違え、三方ヶ原で初めて武田軍の総力に接してボロ負けした家康の強い恐怖心を表現しようと過剰演出、同時に方向性を誤ってしまったとしか言い様がありません。
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