大河ドラマ『青天を衝け』稀代の“エロジジイ”を吉沢亮はどう演じるか? 愛に生きた渋沢栄一列伝
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妾と同居していた渋沢の妻・千代の凄み
たとえば、NHKが発表しているドラマのあらすじでも、実家の家業である農業をほったらかして渋沢は倒幕・尊王攘夷運動に血眼になり、その結果、高崎城を奪い取ろうとして失敗。その罪で御公儀から追われる身の上になると描かれています。
「もはや京都に逃亡するしかない!」という時も、渋沢は逃亡のかたわら、江戸随一の花街・吉原に立ち寄って、その感想を趣味の漢詩にまとめていたりするのです。「吉原に行かずに死ねるか」という腹の座り方は、堂々たるものです。
大河ではこういう渋沢の一面を、どう描くのでしょうか(笑)。
逃亡先の京都時代について、本人は「夫人ぐるひ(原文ママ)」もしないまま、真面目に暮らしていたと妻の千代に言っているのですが、その「夫人」に芸者や遊女といったプロの女性は含まれていないのが定説で、詳細は不明ながら、新選組のある隊士の愛人に手を出し、7-8人連れで襲撃されています。なんとか話し合いで殺されずにすんだようですが。……しかもこの時期が、渋沢が一番女性とは縁遠かった時間というのですから、恐れいりますね。
この後の渋沢は、御公儀に追われる身の上から一転、徳川宗家にも近い“御三卿”のお家柄のひとつである一橋家にスカウトされます。そして徳川慶喜の弟・昭武に随行し、フランスへと旅立ちました。
この約5年の間、妻の千代とは一度だけ、顔を見合わせる程度の短い面会があった程度。それでも妻の千代は文句一ついわず、留守を守ったというのがすごいんですね。
千代のすごさといえば、彼女は東京の自宅で “妻妾同居”を渋沢に許しています。これは、渋沢が赴任していた大阪での現地妻・大内くにと、彼女との間に生まれた娘たちの身柄を、明治4年11月以降に渋沢の妻・千代が受け入れたことがきっかけです。
明治時代の倫理観は面白く、エラい男性が自宅の外にお妾を囲うのはマイナス要素らしいのですが、自宅に正妻とお妾が同居するのは「ま、仕方ない」程度で済むのだそうです。ちなみに家の外にもたくさんのお妾を渋沢が囲っていたのは、いうまでもありませんが。
ですので明治期、妻妾同居は実は珍しいことではなく、例えば勝海舟の家庭はその典型です。ただ、勝海舟は妻から見ると暴君だったらしく、「(女好きすぎる)夫とは別の墓に入れてほしい」などと言われてしまっていました。それにくらべると、渋沢は妻・千代との関係が非常に円満でした。千代の基本姿勢は「旦那がちゃんと稼げている限り、妻がその女性関係に口出しするのは野暮」ということのようですが、公然と妻妾同居を認めてしまう妻の態度は、やっぱり特筆すべき点でしょう。
渋沢にとっては、自分を理解してくれるかけがえのない妻だった千代。彼女がコレラで若くして亡くなると、渋沢は大商人の娘・兼子を後室(後添えの妻)として迎え入れます。そしてさらにたくさんの子供たちが生まれるわけですが、兼子も渋沢の女性関係を、おおらかに受け入れました。ただ、子供たち、とくに娘たちにとって父・渋沢の下半身事情は深刻な悩みだったようですが。
渋沢本人はまったく悪びれず、生存中に出た彼の個人全集に掲載された略歴の中でも、正妻との間に授かった子供のほかに、トータルで何十人もいた“愛人”に産ませた子供の情報も並行で掲載しています。当時でも、そして現代でさえも珍しいオープンな思想の持ち主でもありました。
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