『チコちゃんに叱られる!』岡村隆史「エッ、結婚したら変わる!?」チコ&キョエちゃんまたもミラクル“新婚”攻め
#結婚 #岡村隆史 #チコちゃんに叱られる! #木村祐一
10月23日放送『チコちゃんに叱られる!』(NHK)のゲストは2回目の出演となる「ロッカーズ」こと陣内孝則と、新婚ホヤホヤの丸山桂里奈だ。
「電撃(結婚)と言ってもいいんじゃないの?」(チコちゃん)
丸山と元サッカー日本代表GK・本並健治の結婚は確かに驚いたが、MC・岡村隆史の結婚も電撃だった。今回の『チコちゃん』前日に放送されたラジオ番組『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で岡村は一般女性との結婚を発表しており、今回はまさしく“時の人”登場の記念回と言える。生番組ならば、きっと「岡村おめでとー!」とみんなから祝福されていたはずだ。2人の現状を知ると、新型コロナウイルスによる自粛期間が多くの人の結婚を後押しした? と感じる部分もある。
元NHK・松平定知アナウンサーまで引っ張り出した
この日最初のテーマは「なんで給食に揚げパンが出るようになった?」という疑問だが、回答者に指名された陣内は「政府が揚げパン業者と癒着してた」と陰謀説を唱え、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱り飛ばされてしまった。さらに、丸山は「揚げている人がアゲアゲの人が多かったから」と彼女らしい回答を放っている。チコちゃんが発表した答えは「欠席した子どもにおいしいパンを届けるため」だった。
揚げパンは給食の人気メニューにもかかわらず、長い間、その発祥については知られていなかった。しかし、2004~2005年に給食の歴史を調査した際、揚げパンは大田区の小学校で誕生した可能性が高いと判明したらしい。日本各地の古い献立表を調べたところ、揚げパンが登場するのは、確認できた限り昭和30年代半ば以降だった。しかし、大田区には昭和29年の段階で揚げパンが給食に出されていた記録が残っている。さらに調査した結果、大田区の嶺町小学校で給食の調理師をしていた篠原常吉さんが昭和27年頃に考え出したのでは? という結論になった。
ここから、驚きの新企画がスタートする。「大先輩、よろしくお願いします」のナレーションとともに登場したのは、なんと松平定知アナウンサー! NHKで2006年まで放送されていた『その時歴史が動いた』のオマージュ企画「その時歴史がチコった」が始まったのだ。『チコちゃん』は、NHKを辞めた身内にも容赦なく頼る模様。これは、いわば松平アナの無駄遣いか……? そのうち、久保純子や神田愛花、登坂淳一辺りの元NHK勢が引っ張り出されてもおかしくない。というか、元ネタの『その時歴史が動いた』自体、若い視聴者に伝わらない気もするが……。以降は、森田美由紀アナに代わり、松平アナのナレーションで番組は進んでいった。
明治22(1889)年、山形県で始まったと言われる日本の学校給食。昭和16(1941)年に戦争による食糧不足のため一旦中止になるが、終戦後の昭和22(1947)年に再開された。この当時の献立は、援助物資として送られてきたトマトの缶詰などを使ったスープと脱脂粉乳だった。そして昭和25(1950)年、主食・おかず・脱脂粉乳が提供される完全給食がスタート。この時、給食の主食の座に登場したのがコッペパンだった。コッペパン・脱脂粉乳・みそ汁、これが当時の定番の献立だったのだ。まだまだ贅沢は言えなかったこの時代、たまに出るクジラの竜田揚げはご馳走だった。そして、人気抜群の揚げパンは悲しい運命を背負っていた。
「つまり、自分の出生の経緯を気にもされずにず~っと長い時間を過ごしてきた。それがですね、20世紀も終わりになった頃、この歴史にわずかな明かりが灯ったんですね」(松平アナ)
昭和51(1976)年、学校給食に大きな転機が訪れた。米飯給食の導入である。そして20世紀も終わりに近付いた1998年、なつかしい給食を特集した本が出版された。そこには、揚げパンについてこう書かれている。「揚げパンがいつどこで、どのようにして生まれたかは、ついにわからなかった。もし揚げパンの考案者を知っていたら、ぜひ、本誌に知らせてほしい」
この一節のおかげで、揚げパンの誕生の秘密に光が当てられた。この本を見て、過去の記憶が蘇った読者がいたのだ。村岡玲子さん(当時66歳)は、こんな内容の手紙を出版社に送っていた。「給食の調理師をしていた父が、美味しい物が出来たといってわら半紙に包んだ揚げパンを一つ持って帰ってきたのを思い出した」。玲子さんの父・篠原常吉さんは、戦前は西洋レストランのコックさん。昔かたぎで、家の内外をハッキリ分ける人だった。村岡さんは、常吉さんが家の台所にいた記憶はほとんどなかったと言う。まして、外からお土産の食べ物を持ち帰ってきたのはその時が初めて。だから、このことは玲子さんにとって、とても印象深かったのだ。
常吉さんはすでに他界していたため、玲子さんはかつて父と働いていた人を探し始めた。そして、訪れたのは養護教諭だった石渡ヒロさんのお宅。でも、ヒロさんはご高齢で寝たきりのため、この日は娘の翠さんが応対してくれた。そして、玲子さんは教えてくれた。「揚げパンを考えたのは、あなたのお父さんですよ」「私、見てましたから」。揚げパンを考え出したのは、やっぱり常吉さんだったのだ。しかし、翠さんの「見てましたから」という言葉が気になる。
「その謎解きも含めてですね、さあ皆さん、いよいよ今日の『その時』であります」(松平アナ)
時は昭和27(1952)年、冬のある日。場所は東京大田区の嶺町小学校。当時の翠さんは小学3年生で、母親のヒロさんは養護教諭として同じ学校で働いていた。だから、昼休みや放課後は母親のところによく行っていたのだ。この日、母親と一緒に給食室に向かうと、翠さんの目に飛び込んできたのはコッペパンの山だった。実はこの年の冬、流行性の風邪によって多くの児童が欠席したため、給食のコッペパンが大量に残っていたのだ。そして、欠席した児童のパンは近所の子が放課後に届けていた。とは言え、この頃のコッペパンは時間が経つと固くパサパサになる。正直、美味しいと言えるものではなかった。そこで給食室では病気で欠席している子どもたちのために少しでも美味しくできないか? と考えていたのだ。
すると、1人のおじさんが「揚げてみようか」と言い出した。大きな鍋の中でコッペパンは次々と揚げられ、キツネ色になったパンにはたっぷりの砂糖がまぶされた。これが小学生だった翠さんが見た、コッペパンが揚げられたその時だった。このパンを揚げたおじさんこそ篠原常吉さん、玲子さんのお父さん。番組は、揚げパンが揚がるところを見ていた翠さんに話を聞きに行った。
「その時には鍋の中にバサッと入れてバサッと揚げて、凄いなあと思って眺めてたんです。食べるとすぐに甘いでしょ。美味しいと思いましたね」
しかし当時は何のために作ったのかはわからず、後にその理由をヒロさんから聞かされたそう。
「休んだお子さんのパンが硬くなってしまうので、それをどうやったら美味しくなるか? ということで、篠原さんが『じゃあ、揚げてみたら』というアイデアをお出しになって、休んでいる子どもたちの家庭に届けるために最初作ったと言っておりました」
この日揚げられたパンは1つ1つわら半紙に包まれ、休んでいる児童たちの元に届けられた。そして、篠原さんは残ったパンを1つだけ家に持ち帰った。これが、玲子さんの記憶に残っていた揚げパンだ。
この時の揚げパンを最初に食べたのは、風邪で学校を休んでいた児童である。病の癒えた子どもたちは学校に行き、「なんだか甘い美味しいものがあったぞ」ということを報告する。それがどんどん広がってクラスが大盛り上がりになり、それが隣のクラスにも広がり、さらに学年中、学校中に広がる。そして学校が動き、そのパンは「揚げパン」という名前で学校給食の正式なメニューになったのだ。
何とも素敵なエピソードではないか。『チコちゃん』内のコーナーで終わらせず、この逸話だけで1つの番組が作れそうな感動作である。そして、現代の観点で言えば食品ロス対策の好例としても語れる「その時」だったと思う。久しぶりに、砂糖をたっぷりまぶした揚げパンを食べたくなってしまった。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事