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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 三島由紀夫、柳美里…実在の人物を描いた小説の事件簿

三島由紀夫、柳美里……実在の人物を書いた「モデル小説」のトラブル史が映し出す社会と文学の変化

大正時代に流行った「文壇交友録小説」は衰退

――本を読んでいて「ずいぶん感覚が変わったな」と思う一方、少し腑分けして考えていくと、「今も似たような現象が起こっていること」「今も似たような現象は起こっているけれども、小説や作家では起こっていないこと」「今はそういう欲望や感覚自体がどこかに消えてしまったかもしれないもの」がそれぞれあると感じます。本に書かれた事例でいえば、例えば1901年に与謝野鉄幹の性的放埒を非難する怪文書が出回った結果、読者が半減した事件。これは近年でも作家や批評家のセクハラが問題になっているので、「今も起こっている」。一方、大正時代の大衆雑誌「講談倶楽部」(講談社)のスポーツ小説では実在の著名選手を登場させ、しかしモデルに忠実に描いている部分と作家が勝手に飛躍させて書いた部分が混在していたとあります。これは今では、少なくとも商業小説においては存在しないですよね。

日比 「講談倶楽部」が“低いところ”を狙っていくメディアだから生まれたという面もあります。当時も選手側から抗議されて、「モデルにした」という看板は取り下げていますが、もし今、同じことをやったら大変な問題になりますね。

―― 一時期、明らかに特定の芸能人をモデルにした女性を出して、「芸能界の裏」「闇社会との癒着」などと銘打ったコンビニ流通のマンガが刊行されて問題になっていましたが、あれも「小説」ではないんですよね。また、大正期に流行した「文壇交友録小説」は、今でいえばYouTuber同士のコラボや暴露合戦に似ているなと思いましたが、小説家同士でお互いの交友や私生活の暴き合いを描いたものはあまり見かけません。

日比 確かに、小説の中に仲間の小説家が出てくる作品は、最近の商業誌ではほとんどなくなっているかもしれませんね。

――お互いに書き合うという現象は、なぜ衰退していったのでしょうか?

日比 まず、オーソドックスな私小説が減ったからではないかと思います。もちろん、近年でも西村賢太さんや亡くなられた車谷長吉さんのように私小説をあえて書いてきた作家はいます。しかし、彼らの小説を読んでも、あまり仲間の文学者の話は出てこない。自分が尊敬する文学者を登場させて、文学史的な縦のつながりをアピールしたりしますが、同時代の作家と旅行に行ったとか、文壇でこういう出来事があったとかは書かない。

 純文学系の小説家が持つハイ・カルチャーの担い手としてのイメージを西村さんも車谷さんも自覚をしていて、それをあえて“低く”していくのが彼らの芸です。そこで文壇仲間との目立った交友を書いてしまうと、自分を低めて見せるという戦略と衝突するからかもしれません。ただし、車谷さんは俳人で出版社社長の知人を悪し様に書いて裁判になっていたりしましたから、文芸関係者がまったく消え失せたわけではありませんけども。

――なるほど。お互いに書き合うことで文壇における認知を高め、見取り図をメディアと読者に提供していたのが文壇交友録小説だったという日本近代文学研究者・前田潤さんの指摘が本の中で紹介されていましたが、ステイタスの誇示に見える行為が今はプラスに働かないととらえられているのかもしれない、と思いました。あるいは、『プライヴァシーの誕生』を読んでいて、かつてはあった「小説を通じて他人のプライベートな部分を見たい、ゴシップが見たい」という欲望が今の我々にはあまりないようにも感じました。

日比 「人の心をのぞき込む」「葛藤をねちねち書く」という小説が得意とする機能自体は変わっていないと思います。しかし、メディアの変化も影響して、ゴシップ的な事件は小説が取り上げるものではなくなりました。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、そしてネットとメディアは変化して、今やものすごいスピードでさまざまな事件が消費されていく。小説のような遅いメディアでやってもゴシップ情報そのものにはさほど需要がないし、書き手も意味を感じない。小説に期待されるものが変わったんでしょうね。

――モデル小説とひとくちに言っても、「作者にとって身近な人をモデルにしたもの」と、政治家やスポーツ選手のような「公人・有名人をモデルにしたもの」と2つありますよね。今は、前者にはあまり関心が持たれない一方、後者には需要がある気がします。経済小説には虚実の混ぜ具合はともかく、モデル小説めいたものがいまだありますし――ただ、それは人間の内面や秘密が見たいのか、事件の裏側や真相が見たいのかが微妙なところですが。

日比 政治家や企業経営者などをモデルにしたものは、戦後一時期、純文学の題材となったりしていましたが、今は書かれなくなっていますね。ノンフィクションのルポルタージュでも小説仕立てのものがありますし、歴史小説には近代史を彩った政治家や軍人などが実名で出てきますから、広く文芸ジャンル全体で見ればなくなったわけではない。純文学も、政治・経済モノはさておき、例えば酒鬼薔薇聖斗事件のような社会的な事件があると、直接的なモデル小説としては書かないけれども、事件からテーマを取った作品はさまざまに書かれています。そこは、現在ではジャンルとして棲み分けがありますね。

――大正時代には文壇交友録小説、回想記的随筆、「告白小説」といったように、小説と随筆と告白の流行が重なったとありますが、そういえば読者投稿による雑誌の性的な内容の体験告白ページがここ四半世紀どんどん減っていっている、ということを思い出しました。でも、ネットに一般人の「告白」が移行したのかといえば、違う気がします。そういう需要を感じない。これは「欲望や感覚自体が消えてしまったもの」かなと。

日比 やってはいけない、言ってはいけない秘密を明らかにするのが「告白」ですが、島崎藤村、田山花袋ら自然主義文学の作家たちはそれをウリにして、女弟子に対する恋愛の情や性的な体験の告白を1910年前後から書いていました。性的なものへの関心が薄れたわけではないけれども、「告白」では今の我々はドキドキしない。「告白の対象としての性」という発想は、100年経ってすり切れてしまっているようですね。

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