『麒麟がくる』義輝の最期と“美しすぎる天皇”の登場──史実とドラマ、両方で見る室町幕府の失落劇
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大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)が、ますます盛り上がりを見せている。ドラマをより深く楽しむため、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が劇中では描ききれない歴史の裏側を紐解く──。前回はコチラ
『麒麟がくる』第24回「将軍の器」が放送されました。前回お話した、義輝さんのチョンマゲ=野郎頭問題ですが、史実でもそうだったみたいですね!
……といいたいのですが、この絵を分析するかぎり、どうも頭髪が薄くなっていった結果、髪をまとめている髻(もとどり)、通称「マゲ」の位置も後退した。結果的に野郎頭になってしまった「だけ」……という感じもしますねぇ。毛の残り方がやけにリアルなんですよ。
ちなみに、義輝の父・義晴(第12代将軍)も、病没する寸前の自分の姿を肖像画に描かせています。彼も野郎頭なのですが……これも似たような事情があったのではないか、と想像されます。
さて、当コラムでは、『麒麟~』版の足利義輝(向井理さん)に色々な観点から注目してきたのですが……あっという間に討ち死になさってしまわれました。番組開始後の数分、オープニング映像の後まで生き残れないという。うーん、はかない。
「剣豪将軍」などと『麒麟~』の公式サイトでキャッチコピーを付けてもらいながらも、なかなかドラマでその実力を発揮できてはいなかった義輝。
ドラマでは短い時間ながらも、単身で大勢に立ち向かうシーンがありましたが、彼の隠された強さと同時に悲壮感もあって、良かったと思います。
刀を振るう時、腕の力だけではダメなんですね。背筋から腰にかけての筋肉を使って斬りかかるわけですが、向井理さんは太刀筋がよろしいとお見受けしました。
最後は庭に誘い出され、障子3枚で覆われて、敵にグサッとやられてしまった義輝でしたが、障子の角がぜんぶピタッと合わさってるんですよね。あれ、どうやって撮影したんだろう……ってそれはともかく、実際の義輝の最期はどうだったのでしょうか?
室町幕府将軍・足利義輝が、家臣である三好家の軍勢と交戦し、討ち取られてしまったこの事件、後に「永禄の変」と呼ばれるようになります。幕府の権威の完全な失墜を象徴する大事件です。
同時代人である、イエズス会のフロイスは「義輝は薙刀を手にして見事な戦いぶりを見せ、その後は刀で奮戦した」(『日本史』)という記述を残しているので(文言は筆者の要約)、実際に乱戦になったことは正しいと考えられます。
フロイスは義輝が「武勇すぐれて、勇気ある人」だったとも書いていますね。……ただ、フロイスは自分たち宣教師に味方してくれた人は良く書いて、悪く扱った人についてはケチョンケチョンに書くクセがあるんですね(笑)。織田信長などもそれをやられたクチです。
一方、義輝は天皇から「イエズス会の宣教師を畿内(=関西圏)から追放しなさい」といわれながらも、その命令に従わなかったので、フロイスとしては義輝を良く書く理由しかないのです。
また、同時代の公卿の日記『言継卿記』によると、「(義輝が亡くなる前、二条御所で)戦いが少しあった」と書かれているだけで、武器を手に奮戦する義輝の姿についての言及はありません。ただ、三好家の軍勢による軍事クーデターの結果、足利義輝の命は奪われてしまったということだけは間違いはないようです。
さて、『麒麟がくる』では、紆余曲折はあったけど、武家の棟梁としての姿を最期まで貫こうとした義輝に対し、「6歳で仏門に入り、弓矢も刀も手にとったことがない私に将軍は無理」と言い切った、滝藤賢一さん演じる覚慶(のちの第15代将軍・足利義昭)を対比的に描こうとしているようです。
明智光秀(長谷川博己さん)の目には、「死ぬまで、将軍として勤める」と語っていた義輝の姿と、「死にたくない」と言いながら興福寺から連れだされ、匿われている和田氏の館からも逃げだそうとする覚慶の姿は正反対に思え、余計に情けなく見えたのかもしれませんね。その結果、明智がたどり着いた結論は「覚慶様は将軍の器ではない」というものでした。
どんな資質をもって「将軍の器」と取るかは、人それぞれなんですけれど、明智にとってはやはり「武士の棟梁である将軍は武士の鑑であるべき」なのでしょう。
しかし、他の多くの武士(とくに政治の中枢にいる上流武士)にとっては、「皆の意見をうまいことまとめてくれる名折衝役」程度の意味しか「将軍の器」にはないのですね。こういう価値観の「温度差」、ドラマの中で今後、どう描かれていくかが筆者としては楽しみです。
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