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満州引き揚げ者が「焼き餃子」を普及! 本場とは異なる“日本風中国料理”進化のヒミツ

なぜ静岡と宇都宮は“餃子の町”になったのか?

 では、一方の餃子はどのように日本に定着したのか。

 「これは餃子に限ったことではないですが、カレーやとんかつなど外来の料理が日本で定番化するための条件は、“白いご飯に合うこと”といっても過言ではありません。日本で餃子といえば焼き餃子ですが、中国全土では蒸し餃子が多く食べられ、北京以北に限っては水餃子が主流。特に中国北部は小麦文化で、主食として餃子を食べるので、その皮はもっちりと分厚い。でも、日本人はご飯のおかずとして餃子を食べるため、皮が薄く香ばしい焼き餃子が定着したのだと思います」(同)

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中国ではポピュラーとはいえないものの、日本で普及した焼き餃子。(写真/Getty Images)

 澁川氏によれば、餃子の日本伝来は古く、元禄2年(1689年)に『水戸黄門』でおなじみの水戸光圀に餃子が献上されたという記録も残っている。しかし、本格的に普及したのは戦後になってからだという。

 「明治時代に入ると中華料理を紹介する本が次々と出版されるのですが、餃子に関する記述は少なく、あっても水餃子か蒸し餃子がほとんどで、焼き餃子となると“鍋貼(コウテイ)”という名前でわずかに出てくる程度でした。むしろ、戦前までは焼売のほうが認知度が断然高く、餃子も“焼売の一種”と説明されたりしていました」(同)

 その状況が、第2次世界大戦の敗戦を機に一変する。

 「鍋貼は、もともと餃子の本場とされる山東省で食べられていました。そして、この山東省出身の人たちは、旧満州に多く入植していたんです。つまり、山東省の人たちが旧満州に餃子を持ち込み、その味に触れた日本人が、戦後の引き揚げに際して改めて日本に餃子を伝えた可能性が高い。実際、“餃子の町”として知られる宇都宮や浜松は、満州軍や満州開拓団とかかわりの深い土地でした」(同)

 この焼き餃子を広めた店といわれるのは、昭和23年(1948年)に渋谷の百軒店に開店した〈有楽〉だ。

「店主の高橋通博さんは旧満州の大連から引き揚げてきた方で、当地で食べた餃子を再現して売り始めたところ、人気を博します。有楽は昭和27年(1952年)に店名を〈珉珉羊肉館〉に変え、渋谷・恋文横丁に移転するのですが(2008年に閉店)、同じく満洲引き揚げ者がこぞって同店にならった店を出し、恋文横丁は餃子のメッカになりました。また、珉珉羊肉館で修行した料理人が各地で餃子の店を開いて餃子を広めたといわれます」(同)

 関東大震災と敗戦後の引き揚げによってラーメンと餃子が広まったというのはある意味で皮肉な話ではある。しかし、もしこれら2つの出来事がなければ、ラーメンも餃子も現在ほどメジャーな存在ではなかったかもしれない。

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