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宏池会(岸田派)の憂鬱

菅内閣誕生の裏で評価爆下がりの岸田氏 張りぼての総裁選2位で見えた危うい立場

田中六助から古賀誠=今も引き継がれる川筋者の系譜

 岸田派の一部は、不出馬、または出馬して無残な最下位ともなれば、「1971年の大平のクーデター」のような事態を招きかねないと懸念していた。

 当時の宏池会は後に、衆院議長になる前尾繁三郎が派閥の長だった。四選を目指す佐藤栄作首相(当時)から、四選後の内閣改造での前尾派の優遇を約束され出馬を見送ったが、佐藤から約束を反故にされ、前尾は面子を潰された。派内の不満は一気に爆発し、後に首相の座を射止める大平正芳が田中六助(大平内閣時の官房長官)らに担がれる形で前尾を駆逐し、派閥の会長の座に収まった。このクーデターには前段があり、前尾が佐藤の三選を阻止するため出馬した1968年の自民党総裁選で95票を獲得するも、107票を獲得した三木武夫の後塵を拝する形で惨敗したことも派内の不満要因の火種としてくすぶっていた。

 ここまでなら、半世紀近く前の話で、特に心に留めておく必要もないのかもしれない。しかし、このクーデターを画策し、大平を担ぎ上げた田中六助は、今も宏池会の実質的オーナーで、九州地域選出の議員を中心に強い影響力を持つ古賀誠・宏池会名誉会長(前会長)の政治の師だった。

 田中六助は日本経済新聞の記者出身とはいえ、元を辿れば、荒い気性で知られる福岡の川筋者だ。“金遣いと気は荒い”が男気のあることを何よりの誇りにしている人たちだ。田中六助は同じ福岡出身で川筋者気質を持つ古賀をことのほか可愛がった。古賀も自身のホームページで、「私の心の中にはいつも生きている先生」「私の政治家としての政治理念は、そういう田中六助先生との出会いの中で培われていったものです」と故人を今も称える。政治理念だけでなく、政治の世界での喧嘩の仕方も田中六助から直伝で学んだから、現役時代、古賀は永田町ではもっとも、喧嘩相手にしなたくない存在だった。

 仮に古賀の中に、田中六助から引き継がれたDNAが今もしっかりと残り、派閥の存在意義が政権獲得にあると考えているとすれば、今後も岸田が全国的な支持を拡大することができなければ、見限り時が来るかもしれない。

 この8月で80歳となった古賀誠が自ら動くことはないにしても、田中六助−古賀誠に連なる川筋気質を持った若手が岸田以外の誰かを担ぎ上げる可能性は否定できない。

 立候補に必要な20人を確保できず最終的に出馬断念を余儀なくされたが、15年に野田聖子が自民党総裁選への出馬を模索した時は裏で古賀が糸を引き、派内の若手に野田支持を働きかけたという。

 その野田聖子は今回の菅政権誕生で、幹事長代行となった。今後の彼女の立ち振る舞い次第だが、今後、コロナウイルス感染拡大が更に拡大し、五輪中止、または不祥事などで自民党の人気が急落した時に使える切り札としての存在価値は今も野田に残る。そうなった場合、古賀指示のもと、岸田派が日本初の女性宰相候補として野田聖子を担ぎ可能性も状況によってはあり得るシナリオだ。

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