マインドフルネスやアニメ聖地巡礼は“宗教”か? 寺社も集客を狙うスピリチュアル市場のサバイバル
#アニメ #宗教
広義のスピ市場に向き合わなければならない伝統宗教
――また、村上晶さん(白百合女子大学ほか非常勤講師)の論考「亡き人を思う供養の祭りへ」では、かつての川倉地蔵尊の祭りは一晩中続く盆踊りのような娯楽(余興)と供養が一体化したもので、ある種、猥雑なイベントだったけれども、集客力が落ちて盆踊りや屋台が消えると真面目な供養の儀式としてメディアで取り扱われるようになり、ますます集客できなくなっていった、と書かれています。マーケットという視点で考えると、人を集めるためにはやはり娯楽性が必要で、宗教行事として純化すればいいというものでもないということですよね。
山中 往々にして知識人は、宗教を厳粛にして実存的な問題として考えるところがあります。そこに遊びや猥雑な要素が入ってくると、「いかがわしい」と批判してきました。
しかし、日本社会では実際にはラフなものだったわけです。お祭では御神輿が出る前に神事があるけれども、そのときにはもうみんなへべれけになった状態でやっと神輿が出ていくということもある。祭りという意味では神事が本体ですが、「付け祭り」といって山車だ、踊り屋台だといった部分が肥大化していった。
これまで多くの研究者は宗教を厳格にとらえて、「地蔵尊」といったら「亡くなったお子さんを供養する死の文化」として表象してきました。ところが実際の歴史をたどっていくと、決してそんなことはなかったんです。
この本では、パワースポットや寺社参詣にまつわる旅、観光のことをかなり扱っているけれども、日本の場合はお伊勢参りにしたってもともと厳粛なものではなく、物見遊山で行く人は無数にいました。宗教的な場所に向かう旅の中で娯楽も交えたいろいろな活動をしてきたし、宗教者のほうも霞を食って特別な実践だけをしてきたわけではありません。
村上さんの論文もそうですが、神事はマーケットと絡みながら展開してきたものだということを正面から見据えないと、実態を見誤ると提起しているわけです。
――スピリチュアル・マーケットが拡散する一方で、冠婚葬祭などを取り仕切ってきた狭義の宗教マーケットの担い手たちが、人口が減少する日本でどうやって生き残っていくか、ということもこの本のひとつのテーマだと感じました。
山中 過疎化・高齢化の流れに加えて、コロナ禍によって宗教界はそれをより意識しています。かつては寺社は、待っていれば人が来てくれた。ところが、今は打って出ていかないと来てくれない。ただし、教団組織としてはなんでもかんでも出ていけばいいわけではない。一方で、瞑想は禅の専売特許のようにやってきたところに、宗教と関係なく技術として教えるマインドフルネスなんかが出てくる。では、禅サイドはいったい何をウリにしていくのか。まさに「個々人が選ぶものとしてのマーケットにどう向き合うか?」が教団に問われています。
――ひとつの手段が、天田顕徳さん(北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授)が「『山伏文化』の資源化・商品化」で書かれているように、「宗教」ではなくて「文化」や「観光資源」として扱われるものにして集客する、ということですよね。
山中 修験道は明治にいったん廃止されるという経験をし、その後、修験宗は復活しても、往時の教勢を回復することは難しい状況の中で、山ブームや自然ブームと交わった。それによって修験が変わり、手向(とうげ)集落は活路を見いだそうとしてきたわけです。
日本人は「宗教」と考えると、敬遠する人が多い。ところが、「宗教文化」というくくりにすると、親しみを感じる。パワースポットも世界遺産もそうですが、文化の中核には多くの場合、宗教的なものがある。スピリチュアル・マーケットには宗教文化に対する広い需要があります。それを自覚的に資源として売るという試みが少しずつ出てきているところです。
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