『チコちゃんに叱られる!』NHKらしからぬ絵面とブラックユーモア…ヒロミ、因縁アリの花火問題に「なんで俺。背負う?」
#武田真治 #ヒロミ #フワちゃん #チコちゃんに叱られる!
明治時代の氷ビジネスブームから生まれた「氷旗」
この日最後のテーマは、「なんでかき氷の旗は同じデザインなの?」という疑問。すると、またしてもこの問題にヒロミが正解した。1日に2問連続正解! 決して、ヒロミはボーッと生きていないんだな……。
チコちゃんが発表した答えは、「営業許可証だったから」というもの。あの旗は「氷旗」(ひょうき)と呼ばれ、かつて販売を許された業者が許可証として店先に掲げることがルールだったのだ。現代でも全国でこの旗が掲げられているのは、当時の名残りと言える。
でも、あの旗には「かき氷」ではなく「氷」としか書かれていない。なぜか? 厳密に言うと、氷旗はかき氷ではなく、氷そのものの販売を許す許可証だった。許可証が交付された当時、氷は貴重だった。氷は古くから日本でも利用されており、平安時代に清少納言が書いた『枕草子』には、かき氷について書かれた文章が残っている。「削った氷に 甘味料をかけ 新しい金属製のわんに 入れたものは とても上品である」。当時の上流階級である清少納言でさえ、とてもありがたがって食べていた氷。いかに貴重だったかが窺える。
江戸時代に入ると、徳川家康は夏場に雪や氷をわざわざ富士山から運ばせていたそうだ。加賀藩前田家は将軍家に氷を献上するため、雪を夏まで貯蔵して江戸まで運んでいたという。貴重な氷は「お氷様」と呼ばれ、江戸の庶民は手で触ることもできなかった。暑い時期に冷気を感じる氷は、限られた人だけの贅沢品だったのだ。
氷の使い方に変化が起きたのは江戸時代末期で、当時、横浜に住んでいた外国人たちが氷を求め始めた。その目的は、食料品の保存や、外国人医師が解熱ややけど治療に使うため。しかし、当時の日本には庶民が気軽に使える氷はなかった。そこで、彼らは氷をアメリカから輸入する。当時、アメリカのボストンではウェナム湖の氷を切り出して世界中に輸出するビジネスがすでにあったのだ。船での輸送中は、氷が溶けないよう周りに木材やおがくずを隙間なく敷き詰めていたそう。この保冷技術のおかげで、積み込んだ氷の約55%を運ぶことができた。ちなみに、ボストンから日本までの航路はおよそ1万5000km。輸送期間は、なんと6か月。ビールケースほどの氷で3~5両(現在の30万円)以上したと言われている。庶民が高価な氷をかき氷にするなんて不可能だった。
氷が手軽に使えるようになったのは明治時代に入ってから。そのきっかけとなったのは、中川嘉兵衛だ。外国人が高価な輸入氷を使っていると知った中川は、安い氷を普及させるプロジェクトを開始。山梨県の富士山麓から採氷をスタートし、より良い場所を求めて日本列島を北上。その後、中川が目を付けたのは北海道・函館だった。当時の函館港には大型蒸気船の定期便があり、それを使えば輸送費用も抑えて採算が取れたのだ。そして、最後にたどり着いたのは五稜郭。函館港の防衛目的として江戸幕府によって作られた五稜郭の外堀は、清流の亀田川から水を引き入れていたため、気泡など不純物の少ない透明な氷ができていた。その上、北海道の気候のおかげで十分な厚みのある氷が大量に採れたのだ。そうして、1871(明治4)年には670トンの氷を切り出し、函館氷として商品化される。安い函館氷は日本中に行き渡り、庶民もかき氷を食べられるようになったのだ。
ところが、中川の成功を見て不届き者が現れる。「氷の販売は儲かる」とわかるや、全国的に真似をする者が続出したのだ。中には、不衛生な氷を売る者も出てくる始末……。当時、政府のトップだった伊藤博文は新聞で不衛生な氷の販売を取り締まると発表。政府は衛生検査を導入し、検査に合格した氷業者に配られたのが「氷」と書かれた旗、許可証だったのだ。当時の旗をよく見ると、氷の下には産地が書かれ、上には官許の文字が記されている。これこそ、政府が営業を許可したことの証である。そして、日本中のかき氷屋さんは仕入れ先の許可証を掲げ、「うちの氷は安全だ」という目印にしたのだ。その名残りが、今も全国のかき氷屋さんに残っているということ。ちなみに、氷旗に波が描かれているのは、函館氷が蒸気船を使って海を越えて運ばれたことをイメージしたと言われている。
さて、今夜放送の『チコちゃんに叱られる!』は記念すべき第99回。まさに、ナインティナインだ。でも、99回って意外とまだ少ないな……。もっと放送していると思っていた。ゲストは、今回が2回目の出演のYOUと、初登場のSexyZone・菊池風磨だ。
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