明智光秀は足軽だった? 斎藤道三との本当の仲…etc. 『麒麟がくる』が描かない不都合な歴史
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大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送が、新型コロナウイルスの影響で中断を余儀なくされている。放送再開が待ち遠しいが、この空白の時期を使って主人公「明智光秀」についてより理解を深めてみるというのはいかがだろうか? 今回は、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が大河ドラマが描かない「不都合」な史実を紐解く──。前回はコチラ
NHKの「大河ドラマ」は、史実をベースにしたフィクションです。
『麒麟がくる』で長谷川博己さんが演じる、誰に対しても誠実で、心やさしい明智光秀が、身内にはやさしいけれど、金にはシビアな史実の明智光秀の像と「多少」ズレていても、それはそれで構わないのです。歴史ドラマですから。
しかし、謎の多い明智光秀という男を中心に、人間関係を作っていくのは視聴者が考える以上に大変なはずで、「うまいこと演出するなぁ」などと感心するシーンもありました。
たとえば……『麒麟~』のホームページでは“(明智)光秀の生涯の朋友”として、細川藤孝(後の細川幽斎)が紹介されています。眞島秀和さんが好演なさっておられますね。ただ、残された史料からいうと、細川藤孝は明智の“朋友”どころか、当初は明智を“部下”として使っていた“上司”ではなかったかとさえいわれているのです。
そもそも、残された史料を見る限り、明智光秀が最初にお仕えできた相手は、なんと将軍・足利義昭なんですね(これについては後で詳しく語ります)。『麒麟~』も放送再開後には、明智の人生のキーパーソンである足利義昭(滝藤賢一さん)との絡みが色濃く描かれるのでは、と思っています。
しかし……それなら、『麒麟~』前半戦で描かれた斎藤道三(本木雅弘さん)や斎藤高政(伊藤英明さん)など、美濃(現在の岐阜)の「斎藤ファミリー」と明智の濃い絡みって、全部フィクションだったの? と拍子ぬけしてしまいますよね。
でも、これも「YES」といわざるを得ないのです……。
斎藤父子の戦に巻き込まれた明智一家は美濃を脱出、越前(現在の福井)に向かった……という放送休止までのストーリーは、江戸中期の歴史小説『明智軍記』がベースなんですね。
明智光秀が美濃出身者であることは確かなようですが、美濃の明智家は応永6年(1399)に、将軍直臣となっています。つまり、明智光秀が生まれたとされる1528年から遡ること約130年も前に、美濃の斎藤家、それから土岐家とも主従関係を解消してしまっていた……というのが、記録で見る限りの「真実」なのでした。
また、この美濃の明智家と、明智光秀本人の血縁関係があやふやだとすら一部の学者からは言われているのですが、それについては推論にすぎない印象もあります。この問題は、ここらへんで置いておきましょうかね。
足利将軍家の直属の家臣になってからの明智光秀の祖先の働きは……? というと、これまたよくわかりません。ただ、注目すべきことはあります。足利将軍家とは祖先以来の「ご縁」があったからでしょうか、記録に残る明智光秀の最初の“就職先”は、ときの将軍・足利義昭の家中でした。
しかし、「足軽衆」のひとりとして、なのですね(『群書類従』、『永禄六年諸役人附』など)。「え、明智光秀が足軽?」と、歴史に詳しい方はびっくりするでしょう。足軽って歩兵のはず。『麒麟~』の明智って、最初から馬に乗って戦ってなかった?
そうなんです。騎馬で戦えるのは上流武士だけ。実際の明智は、そんな騎馬姿の上流武士の「進めー!」の号令で走り出す足軽だったのかもしれない、ということなんですね(ちなみに同史料の中で、細川藤孝は、将軍の側近である「御供衆」の一人として記載されています)。
実際のところ、明智と細川の真の関係は“朋友”どころか、細川藤孝に明智光秀がお仕えしていたが、織田信長が明智の才能を見出し、自分の家臣としてスカウトしたとする史料もあります(『多聞院日記』)。
イエズス会の宣教師のフロイスなどは、明智のことを一貫して「実家の身分が低い」などと書いていることで有名です。
つまり……後の豊臣秀吉などと同じように、史実の明智光秀も苦労して底辺から這い上がった存在なのでは? というのが、最近の歴史研究をふまえた明智の実像なのでした。
ただ、これには一考の余地はあるかな、というのが筆者の見解です。
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