織田信長の心を鷲掴んだ豊臣秀吉の集金能力! NHK大河ドラマから紐解く“天下人の錬金術”
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千利休に“資金運用”を任せた秀吉の才覚
集金能力の高さが重視された織田家中で、秀吉の武将人生がスタートしたことは、彼のお金に対する感覚を磨くきっかけとなったはずです。
もともと武士は、主君や仕事に恵まれなければ農業をして生活の糧を得るのが普通。当時は利殖活動に積極的な武士というのは、あまり良い目で見られませんでした。しかし、秀吉は気にしなかったようで、経済活動にものすごく積極的だったのです。
1574年(天正2年)には、朝倉・浅井両家を攻略、浅井家のかわりに近江長浜で、城持ち大名となった秀吉は、利殖活動を熱心にくりひろげるようになったことが知られます。
翌1575年(天正3年)には、当時上昇中だった米の価格相場を背景に、部下に向かって「米を売りなさい。それで安く金銀が買えるのであれば、それらを買っておきなさい」などと指南する手紙が残されています。
また、千利休との濃い絆も、茶道だけにとどまりません。いわば「ビジネスパートナー」として、この頃から関係を深めていっていたようです。
千利休は商人の都として知られた大坂・堺出身で、魚問屋を経営しながら、投資でも儲けていました。秀吉はそんな千利休に預けていたお金を無事、受け取ったという手紙を書き、丁寧な礼まで述べているのです。
つまり、秀吉と千利休の関係の濃さを説明する理由は、茶道を介した芸術愛好家同士のつながりにとどまらず、商売のプロだった千利休に資産運用を任せていたことが推測されるのでした。
さらに、運が良かったのも秀吉が出世できた理由のひとつです。
「太閤秀吉の出世にともない、日本全国の野山に金銀が湧き出した(太田牛一『太閤軍紀』)」ともいわれますが、これはさすがに秀吉のためのヨイショ記事にすぎないとしても、秀吉の時代、全国の金山・銀山などが大量の金銀を量産しはじめたことは事実なのです。
金銀の産出量のピークは、秀吉が天下統一を果たした、1590年(天正18年)頃。つまり、文字通り秀吉の「黄金時代」がやってきていたのです!
1598年(慶長3年)の記録によれば、この1年だけで3391枚の「金子」などが、全国の覇権を手にした秀吉の手元に入ったことになります。しかも、秀吉はこの金を元手に、さらなる「投資」を行って莫大な利益を得ていたことが近年、判明しているのです。
若い頃から、秀吉はコメや金銀の相場だけでなく、作物の値段に地域差があることに注目していました。「天下人」となり、全国の市場の動向を完全に把握することになると、各地の代官たちをつかって安値で買い叩いた産物を、他の地域に輸送、高値で売りさばいて儲けを得ていたのです。
もはや武将や政治家というより、巨大総合商社を一代で作り上げたカリスマ社長のような人物が秀吉の素顔だったと言っても過言ではないのです。
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