明智光秀がスタイリストだった!? 『麒麟がくる』が描かない織田信長の“ヤンキー趣味”を紐解く
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信長のヤンキー趣味を理解していた明智の仕事ぶり
「本能寺の変」の前年、天正9(1581)年のこと。左義長(さぎちょう)という小正月の火祭りの儀式に、信長は次のような格好で現れました。
「黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、(『信長公記』)」……
黒い南蛮笠とは信長が愛用していた西洋風の大きなつば付きの帽子です。そして、眉毛は、全部剃ってしまっていました。ほかには真紅の頬当てで顔を覆っていたとも。
当時の上流階級の男性は、武家・公家を問わず、ハレの日に化粧をすることがよくありました。眉を剃りおとすことも、主に若い世代の公家などの男性に見られがちだった化粧法です。しかし、信長はこの時当時の平均寿命を大きく上回った48歳ですからね。かなり「若さ」への執着もあったようです。
今回の大河でも「人間五十年~」などと歌っていますが、そんな50歳間際の「成熟世代」の信長が、こんな派手な格好、化粧で、自慢の名馬にまたがり、爆竹を鳴らしながら走り去った……というのです。異様ささえ感じずにはいられません。
信長が生涯を通じてバサラ趣味、いまでいうヤンキー趣味の持ち主だったといわれる理由ですが、老いてますます盛んすぎる信長のビジュアルの好みを理解し、その衣装・物品調達を担当できたのが明智の能力のひとつだったわけですね。逆にいえば、そこまで信長に信頼され、いろいろと明智は任されていたのでした。
「信長自身が決めた衣服を、用意しただけでしょ?」と読者は思うかもしれません。しかし、それは違うのです。
例の「火祭り」と同じ、天正9年のこと。信長は京都で”軍事パレード”を2度も開催、正親町(おうぎまち)天皇をはじめとする20万人もの観客に見てもらっています(いわゆる「京都御馬揃え」)。
この時の信長は『信長公記』によると「きんしや」なる豪華コスチュームを身に着けていたそうです。
デザインは「真ん中に人形を、よろしく織り付けたり」……想像もつきませんが、まるでオペラの舞台衣装のよう。信長からの指示もあるにはありましたが、「自然わかやき、思々の仕立あるべく」……つまり「自然に若く見える服がいいなぁ」とか言う以外には具体性ゼロなのでした。やっぱり信長、自分を若く見せたいわけですね。若さを演出するための手段として、ド派手さにこだわるということ自体、もはや若くはない証なのかもしれませんが……。
そんな信長の曖昧な言葉から、真の意図を見抜き、このド派手な衣服を発注できていたのが、明智という男なのでした。明智の中に、こういう「バサラ」すぎる信長のファッションセンスに順応するチャンネルがあったとは驚きでもあります。
今年の長谷川博己さん演じる明智光秀がどの程度、信長の趣味世界にコミットしていくかは今のところ不明ですが、「まったく何をしたいのかわからない!」などと明智が困惑して苦しむ姿が放送されるのを少し期待している筆者です。
しかし、実際、この手の仕事が、明智には大きなストレスになり、「本能寺の変」にもつながっていったのかもしれません。
マネーと仕事ぶりで振り返る明智光秀の実像、次回に続きます。
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