『麒麟がくる』が描かない明智の娘・細川ガラシャの夫婦生活から、光秀“愛妻家説”の真相を追う
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玉子は愛妻家の父親から影響を受けていた?
……と、ここまでの話で、お気づきかもしれませんが、人は自分の生まれ育った家庭環境を人生のモデルケースとして考えがちです。もし、明智玉子が、父親が多くの女性を側室に囲い、もしくは家外に女を作り、母親も泣く泣くそれを許して……という「戦国武将あるある」な家庭に育っていたとしたら、細川忠興の横暴をいやいやながらも受け入れてしまっていたと思うのです。
つまり、明智と熙子がお互いを尊敬し、愛し合う夫婦であったからこそ、それを見て育った玉子は、少なくとも自分の父・明智がしていたように妻に向かい合わない彼女の夫・細川忠興と「離婚したい」と思ったのでしょう。
夫との結婚生活に悩んだ玉子は、侍女とともにキリスト教の宣教師のもとを訪ね、後に洗礼も受けています。しかし、出会ったばかりの玉子の印象を、宣教師は「傲慢」などと評しているのです。もし、それが「夫から私は一番に愛され、大事にされて当然」という玉子の態度ゆえだったとするなら、興味深いのです。
玉子にそういう価値観を持つようにさせた、明智と熙子夫妻の絆の深さは当時の戦国武将にしては珍しいレベルのものだったということでもありますから。ちなみにキリスト教について学び、信仰を深めるごとに、玉子の傲慢さは薄れていったそうですが……。
ただ、明智光秀は「愛の人」というばかりではありませんでした。
実は明智はかなり金にシビアで、ケチな人物でした。その話についてはまた次の機会にでもお話しますが、それでも熙子が重病になった際は、吉田兼見(よしだ・かねみ)という朝廷関係者で神職の家の人に、祈祷を依頼しています。この時は、病気が平癒したので、祈祷成功のお礼金として「銀1枚」……現在の貨幣価値で32万円くらいを気前よく支払っているという記録が残されています。
さらに熙子が亡くなった時、明智は戦の最中だったにもかかわらず、彼女の葬儀に律儀に出席したといいます。これは明智家の菩提寺ともいえる西教寺(滋賀県)の記録にあることなので、おそらく真実でしょう。
これらのデータから、筆者は明智光秀愛妻家説を「正しい」と考えるのですが、読者はどうお感じになられるでしょうか。
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