『麒麟がくる』が描かない明智の娘・細川ガラシャの夫婦生活から、光秀“愛妻家説”の真相を追う
#NHK #大河ドラマ #麒麟がくる #明智光秀 #戦国時代 #細川ガラシャ #大河ドラマ勝手に放送講義
大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送が、新型コロナウイルスの影響で中断を余儀なくされている。放送再開が待ち遠しいが、この空白の時期を使って主人公「明智光秀」についてより理解を深めてみるというのはいかがだろうか? 今回は、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が“愛妻家”としての明智光秀に迫っていく──。(前編はコチラ)
戦国武将の中では数少ない、正室一筋の男だったといわれる明智光秀。しかしその妻・熙子(ひろこ)については、本当の名前(より正確には“諱”)が熙子だったかさえ、確証がないともいわれていますし、赤貧の明智のために髪を売って宴会費用をなんとかしたお話なども江戸時代に書かれた歴史小説がソースだったり、実証性にかけることばかり。
……というような話を前回はしました。
しかしそれでも、明智と熙子は愛し合う夫婦だったのでは……と筆者は推理しているのです。
明智と熙子には、何人か子どもがいます。ちなみに「謀反人」明智の子だからか、男の子には、実在が証明できるケースが少なく、唯一実証できるとされる明智光慶(通り名・十五郎)も、普通なら残されているべき初陣の記録すらありません。
一方で、長女から四女までは実在し、名だたる武将の妻となっていることはわかります。有名なのは、細川忠興(ほそかわ・ただおき)の正室となった「細川ガラシャ」こと、明智玉子(たまこ)、もしくは玊(たま)ですね。ちなみにこの頃、身分の高い女性が、婚家の“姓”を名乗ることはありませんので、細川ガラシャというのは後世に作られた呼び名です。
この4人いる娘の中で、名前がわかっているのは玉子だけ。その他の子の名がなぜわからないかというと、多くの戦国武将の家には名門にとつぎ、そこの嫡男を生むなど、妻としての功績を残せなかった女性の名前は残さないという「掟」が発動したからでしょう。
有名武将の家に生まれた女性でも、実名すらわからないケースは多々あり、家系図に「女」とだけ書かれるだけでもマシなほう。生きた証がまったく残らないこともありました。
しかし、「細川ガラシャ」こと、明智玉子は違いました。細川忠興の正室として、ある時期までは非常に夫と良い関係にあり、嫡男をふくむ多くの子をもうけていたのですから。
ちなみに史実でいうと、側室は武将にとって“妻”ではなく、正室が認めた場合のみ、雇うことができる“使用人”にすぎません。ですから、正室に人望の高い者がいる場合、いかに武将が独裁者で、側室を愛していたところで、正室の子を押しやって自分の後継者にするようなことは通常、叶わぬ夢なのですね。
だからこそ、嫡男をはじめとして、多くの子をもうけた明智玊子は細川忠興に「ちやほや」されていても当然と考えていたのでしょう。しかし、明智が「本能寺の変」をおこし、明智の娘を妻としている細川家の立場が微妙なものになったことで、明智玉子も身重にもかかわらず山奥に幽閉されるという苦難を経験するはめに。これによって、細川忠興との夫婦仲も劇的に悪化しました。想像にすぎませんが、玉子としてみれば、夫から裏切られたと思ったのではないか、と。
この2人は同い年夫婦なのですが、妻に対する細川忠興の態度には「余裕」がないと感じる部分があります。復縁できたのちも、以前のような愛情ある態度で接しなくなった明智玉子に対し、焦ったのでしょう。脅しのつもりか「5人の側室をワシは持つぞ」と発言してしまい、2人の関係はさらに悪化しました。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事