『エヴァ』にも影響を及ぼした異端のピカレスク『銭ゲバ』──テレビと銀幕の中のジョージ秋山(1)
#マンガ #松山ケンイチ #更科修一郎 #銭ゲバ #エヴァンゲリオン #ジョージ秋山
テレビドラマ版『銭ゲバ』(日本テレビ/2009年)
2000年代に入った頃から、70年代ジョージ秋山作品の再評価が進んでいくのだが、2009年に突然、日本テレビの土9ドラマ枠でテレビドラマ化されたのには驚いた。
もともとこの枠は、90年代中盤から堂本剛主演の『金田一少年の事件簿』(95年)など、若者向けのドラマ枠になっていたのだが、2003年の宮藤官九郎脚本『ぼくの魔法使い』や木皿泉脚本『すいか』あたりから、河野英裕プロデューサーを中心に前衛的な企画を連発する枠になっていた。最近も2005年の『野ブタ。をプロデュース』総集編がコロナの穴埋めで放送されているが、2010年の『Q10』あたりまでは怪作揃いであった。良くも悪くも。
もっとも、『銭ゲバ』原作は後半、公害問題や金権政治に大きく尺を割いており、公害病の描写では石牟礼道子『苦海浄土』からの引用と思しき台詞もあるなど、同時代性の強い社会派ピカレスクだったので、岡田惠和の脚本は現代の社会問題へ置き換え、蒲郡風太郎の行動原理も高度成長期的な上昇志向の戯画化から厭世的な若者の復讐譚へ換骨奪胎されている。
実際、第一話から2009年当時の派遣切り問題を描いたことで、御手洗経団連会長への批評性が嫌われ、会長を務めていたキヤノンを含めた提供スポンサーが次々と降板、最終的にコカ・コーラの1社提供になった。ある意味「勲章」だが、上層部はさぞ困ったことだろう。
風太郎役の松山ケンイチは一世一代の名演で、珍しくジョージ秋山からも絶賛されていたが、風太郎の犯罪の相棒であるガン患者の青年を演じた柄本時生も泣かせる演技で、風太郎のキャラクターに原作にはなかった陰影を与えている。
岡田惠和が本来得意としているホームドラマ的人情話の描写が時折混じることは、原作のファンとしては違和感もあったのだが、これが最終回の仕掛けで効果的に作用する……というか、映画版は原作マンガの連載中に製作されたから、風太郎が犯罪の果ての栄光と虚無を語る最終話までは描かれていないのだが、テレビドラマ版では若干の変奏ではあるものの、最終話の肝となる大仕掛けを忠実に描いている。
まるまる1話使って、それまでの8話分(全9話)と重ね合わせるとは思わなかったが……何のことを言っているのか、原作やドラマを知らないひとにはわかりづらいだろうが、放送当時「これは『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版最終回のパクリか?」という感想もあった……と書けば、何が起きたのか、だいたい想像できるだろう。付け加えると、むしろ『エヴァ』のほうが『銭ゲバ』の影響下にあるのだが。【※06】
【※06/なので、筆者は1996年3月のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』最終回にはそれほど驚かなかった。そのあたり、とある著名な批評家が明らかにわかっていながら煽っていたので、人が悪いなあ、とは思ったが。なお、監督の庵野秀明は細君の安野モヨコが執筆したエッセイマンガ『監督不行届』(祥伝社)で、ジョージ秋山作品の中でもマイナーな『戦えナム』『教祖タカハシ』のパロディネタを演じるなど、マニアックなファンである】
なお、このラストの大仕掛けは、1971年に「週刊少年サンデー」で連載された次作『告白』でも用いられており、テレビ版『エヴァ』最終回の描写はこちらのほうが近い。
もっとも、現代の視点から見ると『銭ゲバ』はラストの「ペーソスの世界へ回帰する」大仕掛けがすべてであり、少年マンガの絵柄で青年マンガ的なピカレスクロマンを描くことは、初出から50年を経た現在ではそれほど重要ではなくなっている。
しかし、貧困と犯罪をペーソスを交えつつ描いた社会批評性に関しては、ジョージ秋山の衣鉢を継いだ者は少ない。ジョージ秋山が晩年まで「一風変わった大御所」であり続けたのは、その一点を誰も真似られなかったからこその敬意なのだが、次回は『銭ゲバ』以外の映像化作品を回顧しつつ、そのあたりを振り返ってみたい。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事