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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > ジョージ秋山、映像作品の異端
更科修一郎『テレビくん千年王国』第1回

『エヴァ』にも影響を及ぼした異端のピカレスク『銭ゲバ』──テレビと銀幕の中のジョージ秋山(1)

──コラムニスト・更科修一郎が記すテレビ今昔物語

『銭ゲバ』(ジョージ秋山/幻冬舎文庫)

 6月1日、日本を代表するマンガ家のひとりであるジョージ秋山死去のニュースが報じられた。2017年の『浮浪雲』連載終了後はアシスタントを解散しており、新作マンガの発表もなかった【※01】が、多くの著名人やファンが哀悼の意を表し、『銭ゲバ』『アシュラ』『浮浪雲』などの代表作は2020年の現在でも語り継がれる傑作である。

【※01/唯一、今春まで「ヤングキングBULL」(少年画報社)で、かつて「少年キング」で連載されていた『ギャラ』のリメイク連載が行われていた。作画は小林拓己】

 ……とはいえ、他の日本マンガ界の大御所たちとは違い、テレビアニメ化された作品はひとつもない。ならば、青年向けの劇画家だったのかと言うと、キャリアの前半はすべての週刊少年マンガ誌(『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』『週刊少年ジャンプ』『週刊少年チャンピオン』『週刊少年キング』)で連載を持っていた。

 なのに、映像化作品の多くはテレビドラマや映画である。今回は少年マンガと青年マンガの境界線が曖昧だった時代に、数々の傑作・問題作を生み出したジョージ秋山の映像化作品を回顧してみたい。

映画版『銭ゲバ』(東宝/1970年)

東宝レコード 映画・TV編~銭ゲバ大行進

 1960年、貸本マンガ誌に本名の秋山勇二名義で描いた白土三平風の忍者マンガでデビューしたジョージ秋山は、『丸出だめ夫』で知られるギャグマンガ家・森田拳次への師事を経て、1968年に『パットマンX』で講談社児童まんが賞を受賞する。この頃はペーソスを持ち味とするユーモアギャグマンガ家だったが、翌年の1969年に「週刊少年ジャンプ」で連載した『デロリンマン』では哲学的な台詞や前衛的な描写が紛れ込むようになり、『ハレンチ学園』がヒットしていた永井豪と共に、ギャグマンガ界のボスであった赤塚不二夫から敵視されたりもした。【※02】

【※02/アル中だが人情味のある人物、というイメージが強い赤塚不二夫だが、全盛期は酒席に若いギャグマンガ家……永井豪や山上たつひこを呼び出しては理不尽に叱責していたことが後年、語られている。なお、最初にそれを暴露したのはジョージ秋山だった】

 『デロリンマン』の次に「週刊少年サンデー」で発表したのが『銭ゲバ』だった。丸っこいギャグマンガの絵柄はそのままで社会派ピカレスクロマンを展開したこの作品は、1969年から一気に青年マンガ化した少年マンガの象徴的作品として話題を呼んだ。

 青年マンガ誌は、1967年に「週刊漫画アクション」(双葉社)、1968年に「ビッグコミック」(小学館)が創刊していたが、少年マンガ誌でも「週刊少年マガジン」連載の『あしたのジョー』が三島由紀夫などの文化人に評価され、1970年4月のテレビアニメ化の宣伝企画で寺山修司主宰の劇団・天井桟敷が力石徹の葬儀を行うなど(3月24日。寺山修司企画、東由多加演出)、サブカルチャー的に人気を博し、同時多発的に対象年齢の高いハードな作品が増えていた。そして、『銭ゲバ』の連載開始は3月22日号。ちょうどこの葬儀のタイミングだった。【※03】

【※03/もっとも、連載開始号の惹句は「まんが界初のギャグドラマ」で、それまでのジョージ秋山の作風から、編集部側も作品のコンセプトをつかみきれてなかったように見える。また、同時に連載開始されたのは永井豪のショートナンセンスギャグだった】

 偶然か狙いが当たったのかはわからないが、あっという間に話題となった『銭ゲバ』は8月と11月に総集編となる増刊号が刊行された。そして、11月の増刊号は10月31日に公開された映画版に合わせたものだった。

 東宝系で全国公開された映画版『銭ゲバ』はジョージ秋山の初映像化作品となったが、状況劇場を主宰していた唐十郎が主人公・蒲郡風太郎を演じ、緑魔子がヒロイン・三枝子を演じるなど、当時流行していたアングラ演劇の影響が濃い配役だった。『あしたのジョー』が天井桟敷なら、こちらは状況劇場だと言わんばかりに。

 実は、ジョージ秋山作品の映像化のほとんどは東映で、東宝というのは意外なのだが、1970年はテレビの台頭で映画産業がいよいよ斜陽化し、撮影所システムや五社協定も崩壊しつつあった。そのため、監督は東宝出身でザ・タイガースやドリフターズのアイドル映画を撮っていた和田嘉訓だが、製作は日活系の近代放映への外注だった。日活の『ハレンチ学園』第1作が1970年5月2日公開なので、そのあたりが企画の発端だったのだろう。【※04】

【※04/現在では想像しづらいが、キャリア初期のジョージ秋山と永井豪は「少年誌で無茶苦茶やらかす若手ギャグマンガ家」として、並び称されることが多かった】

 肝心の映画だが、アングラ演劇のセンスを積極的に取り入れたことで、時代の匂いも含めて原作再現度は高いが、連載中に映画化されたこともあり、物語は途中で終わっている。実際、3月末の連載開始で10月末の映画公開というのは、当時としては当たり前なのだろうが、それでも相当に早い。

 翌1971年には日活がロマンポルノ路線へ転向、大映が倒産するなど、日本の映画産業がもっとも混乱していた時期で、製作の近代放映も1976年に倒産したことから、稀に名画座で観られる機会はあるが、本作はビデオソフト化されていない。

 一方、少年マンガの丸っこい絵柄で対象年齢の高いハードな作品を描く流れは、オイルショックによる雑誌ページ減などの紆余曲折を経由しつつ、大手各社が「ヤングマガジン」(講談社)「ヤングジャンプ」(集英社)「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)など、少年マンガの延長としての青年誌=ヤング誌を創刊する80年代初頭まで続いた。

 しかし、ヤング誌というマンガジャンルが確立し、同時に少年マンガの世代交代が起きたことが、ジョージ秋山を少年マンガから遠ざけることになる。【※05】

【※05/ジョージ秋山最後の少年マンガ作品は1991~92年に「月刊少年ガンガン」(エニックス)で連載されたペーソス系ギャグマンガ『ドブゲロサマ』だが、単行本の初版部数はわずか3000部だったと言われる】

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