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『チコちゃん』レビュー

『チコちゃんに叱られる!』隙あらばボケようとする唐沢寿明

適当なことばかり言う唐沢寿明のトーク力

 続いてのテーマは「なんで秋葉原はオタクの街になったの?」。ここで回答を買って出たのは唐沢だ。

「秋葉原はオタクの街ですよ。で、隣の上野は『あなたの街』って言われてたの。隣が秋葉原だから、もう“お宅”でいいやってことで『オタクの街』になったんです。確か、1980年代にはそうだったと思う」(唐沢)

 隙あらばボケてくる唐沢、よくこんな適当なことを思いつくものだ。というか、言い方がさらっとしているから、本気なのかボケなのかもよくわからない。見事なトーク力である。

 このテーマの答えは「GHQのおかげ」。詳しく教えてくれるのは、サブカルチャーを中心に現代日本の文化を研究する明治大学の森川嘉一郎准教授だ。終戦直後の秋葉原周辺一帯は空襲で焼け野原の状態だった。終戦後、秋葉原に近い神田周辺の道路には、近辺にあった電気工業専門学校の生徒向けに真空管などラジオ部品を売る数多くの露店が並んでいた。戦争直後はメーカーの工場が破壊されてしまい、ラジオを完成品の状態で出荷しにくい状態が続いていた。当時、ラジオは数少ない娯楽のひとつだった。だから、技術のある人は部品を買い集めて自分でラジオを作ってしまっていたわけである。こうして、ラジオ部品を取り扱う専門性の高い露店が神田に増えていった。

 そんな中、1949(昭和24年)に、日本の占領政策にあたっていたGHQが主要道路の拡大や整備などを目的に露店撤廃令を発令する。この政策により、神田の道路沿いにあった露店も立ち退きを余儀なくされる。しかし、そうすると多くの人たちが生活の危機に直面してしまうので、露天商の人たちはGHQに直談判しに行った。交渉の結果、露天商たちには商売できる代わりの場所が提供されることに。このとき、ラジオ部品の露天商たちにたまたま提供されたのが、当時空いていた秋葉原駅の高架下等のスペースだったのだ。結果、ラジオ部品を取り扱う露店が現在でも残っている秋葉原駅の高架下などのスペースに集中。ラジオ部品店を中心に秋葉原は専門性の高い商品を取り扱う電気街となったのだ。

 ここからは、当時の秋葉原に詳しい秋葉原観光推進協会理事・松波道廣さんによる解説。1950年代に入ると徐々に大手メーカーの経営が再建し、いろいろな家電製品が生産できるようになる。この頃から秋葉原にあった電気店は一般客向けに家電製品を販売するか今まで通り技術者やマニア向けに部品を販売し続けるかの2つに分かれていった。そして、家電製品を売るようになった店舗がその後の家電ブームを牽引していき、60年代になると秋葉原は“家電の街”に発展。高度経済成長により、表通りの家電販売店は大いに賑わった。

 しかし、秋葉原のすごいところは家電を求める家族が大量に訪れていた時代でも、裏通りにはマニアックなお店が残っていたことだ。73(昭和48)年のオイルショックから始まる経済不況で徐々に家電の売れ行きが落ち始めた頃、裏通りのお店でパソコンが売れ始める。当時のパソコンはマウスもなく、今と比べると使うのに非常に専門的な知識が必要なマニアックな商品だった。家電の流行に流されずマニアックな商品を売り続けた裏通りのお店と、それを買いに来るニアックな客。こうして、秋葉原はパソコンが売れる街になった。さらに、90年代初めのバブル崩壊をきっかけに表通りの家電販売店が閉店していくと、入れ替わるように大型パソコン専門店がオープン。これは、裏通りの店舗が育んできたマニアックなパソコン文化が遂に秋葉原の顔になった瞬間といえる。

 ここからは、再び森川先生による解説。先生が手に取った80年代のパソコン雑誌の表紙には、目立つようにアニメのキャラクターが掲載されている。そして、雑誌の中央ページにはパソコンのプログラムが掲載されていた。このプログラムを全部キーボードで打ち込むことによって、表紙のアニメキャラをパソコンモニターの画面に表示できたのだ。

「こうした雑誌の企画などによってパソコン趣味とアニメ趣味を合体させる形でオタク文化っていうのが発展していくことになるんですね」(森川先生)

 う~ん。正直、納得がいかない。いわゆる「エロゲー」が販売されたことで、パソコン文化を前面に押し出す秋葉原にオタクが集まったという構図があると思うのだが。エロがテクノロジーを進化させたというのは、もはや通説である。何にせよ、パソコン好きが集まる街になったことで結果的にアニメグッズに対する需要も高まっていった。

 ここからは、日本で一番有名なフィギアの会社、海洋堂の代表取締役社長・宮脇修一先生による解説だ。

「秋葉原でパソコンがブームになって盛り上がっていると、同じようなタイミングでパソコンゲームから派生した美少女との恋愛アニメーションのゲームフィギュアも人気が出て、それによって秋葉原とフィギア関わりが深まってきたと感じたんですね」(宮脇さん)

 宮脇さんは、経営するフィギュア専門店を秋葉原に移転。その後も多くのアニメグッズ専門店が秋葉原に続々と進出し、オタク文化は秋葉原の主役になったのだ。

 なんだかんだ、面白い掘り下げだった。今度は、池袋がなぜ“腐女子の街”になったかも教えてほしい。

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