コロナ対応でモタつく“友人”安倍総理をディスる! 著作から読み解く百田尚樹の“変節”
#インタビュー #百田尚樹
大衆の味方と差別主義者の両立
――安倍政権べったりに見えていたけれども、百田は「お金をもらってヨイショする“ビジネス保守”」ではなく、「大衆が食える(大衆を食わせる)」「日本人の命を守る」ことを非常に重視しているがゆえに、新型コロナウイルスをめぐる安倍政権の後手後手の対応に苛立っている。言いかえると、安部首相の振る舞いが百田の考える「庶民の味方」像から大きくズレを見せたことによって、批判に回ったのだということはわかりました。
藤田 百田尚樹には実直な「善人っぽい部分」があり、そこも彼が支持されている理由でしょう。しかし、同時にコロナのことを「武漢ウイルス」と呼ぼうと言い出すなど、やっぱり差別的なところがある。
――大衆の味方であるという「善人」としての顔と、差別主義者・歴史修正主義者としての側面は、百田の中ではどうつながっているんですか?
藤田 それこそが『百田尚樹をぜんぶ読む』の中心的な疑問のひとつでした。本の中では触れていないぼくの意見をここで述べますが、それは今挙げた百田尚樹のいい点の、裏返しなのだと思うんです。
――裏返し?
藤田 つまり、「危機」の「徴候」を早く読めるということは、警戒心と不安が異様に高いわけです。覚醒レベルが常に高く、過緊張・過覚醒状態だともいえます。コロナウイルスに対しても、他国の軍事的な動きについても、世論戦・諜報戦に関しても、早く気づいてしまう。そして危機や脅威や不安の感覚は、脳の中でも原始的な部位である大脳辺縁系にあり、情動を司る扁桃体という部分を興奮させて、「敵/味方」や二項対立といった、粗雑な世界認識に人を誘いやすい部分があります。この感覚は、感染症の恐怖が、人種差別を激化させている現状を見ていると、多くの人がわかるのではないでしょうか。
――人種差別に限らず、「マスクをしていない人」「濃厚接触が多いサービス業の従事者」に対する過剰な忌避や批判もすでに起こっていますからね。「差別じゃない。正当な防衛意識だ」と言う人も多いでしょうが、その人の属性やレッテル貼りによって嫌悪したり怒りをぶつけたりしていれば、それは一種の差別です。
藤田 ええ。そういう感覚、思考は、例えば日本に住んでいる外国人が「スリーパーセル」「スパイ」かもしれないといったレイシストがよくする類推と同根です。つまり、何か危機をもたらすかもしれない「異物」であると認識した存在に対する不安や恐怖が、人種や民族をまとめて忌避したり排除を願ったりする心性につながっているのでは、と思います。
その身体的・反射的な排除の感覚は、百田が『影法師』で飢饉を書いている、「大衆」「民」を食わすことを重んじているという話とつながります。
――というと?
藤田 飢餓や新型コロナウイルスのような国難のとき(共同体が危機に陥ったとき)、どうすべきか? 全員を救うことができないとすると、誰を何の根拠で助けるか? そこで「ナショナリズム」が導入されるわけです。百田やネトウヨが「外国人に生活保護を受けさせるな」「不正受給が問題だ」と主張することにも、このあたりの考えが影響していると思います。それが本当に極端なところまでエスカレートすると、「戦前の日本みたいな状況で自国の民を救うためには、他国の民は犠牲にしていい」といった侵略戦争の正当化に行き着きます。新型コロナウイルスの危機で、WHOが世界的な食糧難が起きかねないと警告しておりますが、食糧生産国のいくつかはすでに自国のために、食糧輸出を停止しています。平時には「そんなことはあり得ない」と一蹴していた人も、今ではこれがすごくリアルな話だということがよくわかるのではないでしょうか。
――いわば、国レベルでの「買い占め」「備蓄」が起こるけれども、その行動の源泉は外国人差別と同じ、防衛意識である、と。
藤田 誰を生かし、誰を生かせないのか、そういうシビアな危機を考えてしまう人なんだと思います。平時には多くの人はそこまで考えていないし、考えたくないと思いますが、それをむしろ考える、平時すら危機のように見なして生きる、そういう世界観なんだと思います。新自由主義ってそうじゃないですか。だから、平時ではわりと有害だけれど、危機のときには強いのではないかと思います。
ところで、差別心とは、糖尿病のようなものだと思うんですよ。
――糖尿病?
藤田 今のように医療・疫学が発達する以前の時代には、異人種や異国の人は、感染症などを運ぶ可能性が高かった。ある種の職業の人もそうですね。だから、それを恐れたり避ける気持ちがあるほうが、生存の可能性が高かったというふうに、進化心理学を援用して差別を正当化する人がいます。それは確かに一理あると思います。だけれども、それは、高血糖によって氷河期に血液が凍ることを防ぎ、生存の可能性を高めていた仕組みが、現在の環境では糖尿病を引き起こして人類を苦しめている、というのに近いことなんだと思います。現在では、人種や民族、国籍を超えて協力行動をしたほうがプラスが大きいわけですから――コロナ禍以前は、少なくとも。
――なるほど。
藤田 ぼくは、百田の差別心を許容してよいとは、正直思わない。今よりも環境が悪く、衛生状態がよくない時期に合理性があったかもしれない差別心は、現在の環境ではむしろ自分たちを蝕む生活習慣病のようなものになってしまっている。だから、それもぼくらの生存に対するひとつの脅威であり、克服したほうがいいと、ぼくは思います。
――ただ、平時にはしまい込んでいる人であっても、非常時になるとむき出しになってしまいやすいので、難しいですね。もちろん、一部のリベラルの人たちがこのところ百田に珍しく賛同しているように、非常時だからこそ平時は思想信条や提言がまったく異なる勢力同士が連帯できる可能性もあるわけですが……。とはいえ、百田を鏡のようにして考えると、いろいろ見えてくることがよくわかりました。
藤田 平時と非常時とで、感じ方・考え方は随分変わるでしょうね。多くの人が、思想・信条を再考しなければならないと思いますし、普段の言動と非常時の言動の違いについても、自覚的に思考するべきだと思います。
最初の問いに戻りますが、最近の百田尚樹の振る舞いが「変節」なのかどうかでいえば、表面的には変節に見えるが、『百田尚樹をぜんぶ読む』で検証してきた百田尚樹像からすると、それほど変節したようには見えない。むしろ、一貫しているかなと思います。
そして、新型コロナウイルスの「危機」に際しては確かに見事な先読みを見せているが、ほかの件はどうなのか。そこはまだよくわからない、というのが正直なところです。『殉愛』(幻冬舎/14年)の件などで、大きなミスもたくさんしているので。詳しくは、『百田尚樹をぜんぶ読む』を読んでください(笑)。
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