GREEN KIDSが紡ぐ移民の歌 差別、暴力、貧困…日系ブラジル人が集住する団地発のラップ
#ヒップホップ #ラップ #GREEN KIDS
リーゼント姿のブラジル人ヤンキー
「E.N.T」が制作された2018年、折しも日本では“移民”問題が注目を集めていた。入国管理局に収容された不法滞在者に対する虐待や、来日した技能実習生が劣悪な環境に耐え兼ね失踪する事件が明るみに出る中、国会では外国人労働者のさらなる受け入れ拡大を目的とする入国管理法改正案が可決。しかし、政府は、彼らはあくまでも一時的な出稼ぎであって、移民――つまり、新たな市民として認めるわけではないというスタンスを崩そうとしない。また、世間では増え続ける外国人に対する不安感がヘイトの雰囲気を醸成していった。もちろん、そのような状況はずっと続いているものだ。そもそも、東新町団地に日系ブラジル人をはじめとする外国人住民が増えたのは、90年にも行われた入国管理法改正が要因だった。
1908年に始まった日本からブラジルへの移住政策は、150万人とも200万人ともいわれる日系ブラジル人を生み出した。そして、90年、バブル景気に伴う人手不足を解消したいという経済界の後押しを受けて入国管理法が改正、日系人の在留資格が緩和され、ブラジルから多くの人々がいわば逆流してくることになる。彼らは製造業の集積地である北関東や東海地方へ向かい、スズキやヤマハ発動機が工場を構えている静岡県でもブラジル人人口が爆発的に増加。Flight-AとSwag-Aの両親も東新町団地に入居し、故郷より遠く離れた――もしくは先祖がいた国で日系4世にあたる双子を授かった。
Flight-AとSwag-Aは、普段、静岡県西部地区の方言である遠州弁と、ポルトガル語を使い分ける。団地内で、父親の友人だという中年男性がポルトガル語で声をかけてきた際は、彼が言っていることを「オレのグラサン、どこ行ったか知らん? 家に落ちてない? たぶん、この間、飲みに行ったとき、酔っ払って忘れたでよ」と訳してくれた。両親をはじめとして、団地には日本語が話せない日系ブラジル人が多かったため、彼らも幼少期はポルトガル語だけを使っていればよかったが、公立小学校の入学式で日本社会に直面する。
「最初、みんなの前で順番に挨拶していくとき、オレら日本語ができないから泣いちゃったんです。先生は『ポルトガル語でいいよ』と言ってくれたのに、それも恥ずかしくて」
すぐに友達ができ、自然と日本語を覚えたものの、一方で、ブラジル人学校に進んだ子どもたちとは相いれなくなってしまった。
「団地でも別々の場所でサッカーをやっていました。ある日、学校同士で試合をしたんですけど、結局、それも喧嘩になっちゃって。なんか、あのときは仲良くできなかった」
ブラジル人学校は学費が高い。そのため、Flight-AとSwag-Aの家庭のように、日本語が使えないのにもかかわらず公立学校を選ばなければならないケースも多い。彼らも子ども心に思うところがあったのだろう。
やがて、GREEN KIDSのメンバーたちは団地の集会所の前にたまるようになる。もともと、そこには年上の不良がたまっており、幼い彼らにとっては怖い場所であると同時に憧れの場所だった。ちなみに、当時、東新町の不良のスタイルとしてはヤンキーや暴走族が主流で、「見た目はブラジル人だけどリーゼントとか襟足が長いとか、全然いた」という。Flight-AとSwag-Aも警察の厄介になることが増えていったが、もうひとつ、夢中になれるものを見つける。父親が聴いていたスヌープ・ドッグのようなアメリカのラップを経由して知った、日本のラップ・ミュージックだ。
「特に好きだったのは、ANARCHYさんですね」
みなが口を揃えて言う。ANARCHYは京都市伏見区にある向島団地の出身で、06年に発表したファースト・アルバムでは、貧困に苦しみ非行に走った少年時代を詩的に表現し、高い評価を得た。
「リリックが刺さったんですよ。オレらと一緒じゃん! って」
彼らは集会所の前にある自動販売機の電源を抜いてオーディオをつなぎ、大音量でラップ・ミュージックを鳴らし始めた。やがて、それに飽き足らず自分たちの歌を歌い始める。
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