トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > インタビュー  > YENTOWNの軌跡(前編)
ラッパー「MONYPETZJNKMN」インタビュー

「北区にあるKOHH君の自宅によく行ってた」MONYPETZJNKMNが激白するYENTOWNの軌跡(前編)

あのMVの仮面は飛んでいた時期の名残り

――いい機会なので、改めてYENTOWNの結成の経緯を教えてください。もともと、Chaki Zuluさんが立ち上げようとしていたアパレルのブランド名になる予定だったともいわれています。

M  俺は「GSP」(レーベル〈GUNSMITH PRODUCTION〉)でKOHH君と一緒にやっている頃から、大二君(JNKMN)とは仲が良かったんです。

J 10代だったMonyは俺と健太君(ANARCHY)に挟まれて、クラブのエントランスをくぐり抜けたりしてましたからね。

P 大二君の運転する車で、北区にあるKOHH君の自宅兼スタジオによく行ってて。そこにMonyや318(〈GSP〉のプロデューサー)もいてね。

J  DUTCH MONTANAやYTGもいた。ちょうどその頃、Y.G.S.P(トラックメイカー)のビートでKOHH君とPETZと「十人十色」(2013年)を作りましたね。

――当時は、JNKMNさんの名義がまだTokarevでした。

J そうっすね。あの曲がバズったときに、怖い不良の人からメッチャ怒られました。「お前、Tokarev(トカレフ)って名乗ってるけど、チャカ撃ったことあんのかよ?」って。「うわぁ、そうきましたか……」という感じでしたね。

――ラッパーの「リアルあるある」ですね……。

J それならば、安全装置が付いている銃にマカロフっていうのがあるから、その名前にしようかと一瞬考えて、「いや、でもそういうことじゃねぇな」って。その時期、俺はストリートでミスっちゃって、一度飛んでたんです。で、戻ってきたときに、Chakiさんと「何かやりたいね」という話になって。Chakiさんも俺もヒマだったから、毎日昼から夜まで渋谷の喫茶店でお茶していました。眠剤(睡眠導入剤)を机に置いて、それをつまみながら。駐車場代が2人で1日1万4千円くらいかかってましたね。

P 同じ頃、まだYENTOWNができる前に、俺はChakiさんと「Wavy」と「Higher」っていう曲を作ったんですよ。

 

M 俺はワケあってGSPを抜けた後だった。ある日、突然、大二君から電話がかかってきて、「YENTOWNってクルー作ったから、一緒にやろうぜ」って。

J それでYENTOWNの一発目として、MPJ名義で「Higher Part II」を作って、MVをYouTubeにアップしたんですよ。俺が途中で仮面を被っているのは、飛んでいた時期の名残りっすね。

M 俺がChakiさんのスタジオに初めて行ったのは、この曲のレコーディングだった。だから、それが俺にとってのYENTOWNの始まり。

J 俺自身がラップをスゴくしたいというより、クリエイター集団を作りたかったんです。ラッパーだけじゃなくて、DJもビートメイカーもいるし、映像作れたり、アパレルできたり、イベントを打ったりできるヤツもいて……そういう連中の集合体にしたかった。

U それでベース・ミュージック系のクルー、PROPERPEDIGREEも合流した。そのメンバーのLISACHRISはYENTOWNを抜けちゃったけど、モメたとかではなく、彼女は自分のやりたいことがあって、自然な流れでそうなりましたね。ちなみに、PROPERの今のボスはWATAPACHIで、彼がグッズ制作やVMD(ビジュアル・マーチャンダイジング)の会社をやっていて、NABEWALKS君とUGがそこで働いていますね。あと、YOKOKEN君っていうデザイナーがいて、彼が前回の「YENJAMIN」のスウェットとかデザインしている。

MPJのメインのビートメイカーであるU-LEE

J  YOKOKEN君はKNって名前もあって、MPJの「BOOMIN’」(16年)でラップしていますね。とにかく俺がYENTOWNを始めたのは、Monyをプロデュースしたいという動機もデカくて。俺、パフ・ダディになりたかったんですよ(笑)。パフ・ダディはラップが下手だからディスられるけど、プロデューサーとしては評価されている。じゃあ、俺もラップはしゃべっている程度にやって、プロデュースに力を入れようと。

U JNKMNは当時、「MonyとPETZは自分に持っていない才能を持っているから、一緒にやれば面白いことができる」って言ってた。

J 今もそう。この2人がいないと、やる気が出ない。

P 当時は、YENTOWNみたいにチームやクルーで動いているヒップホップの人たちが、そんなに多くなかった時期だと思うんです。

M だから、「俺らでシーン作るっしょ」ぐらいの気持ちで始めましたね。

(後編につづく)

最終更新:2020/03/07 12:13
123
ページ上部へ戻る

配給映画