トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > ロンブーにおける亮の価値
テレビウォッチャー・飲用てれびの「テレビ日記」

ロンブー亮「ただ隣にいるだけの芸人」という価値

宮下草薙(撮影=木村心保)

 テレビウォッチャーの飲用てれびさんが、先週(1月26日~2月1日)に見たテレビの気になる発言をピックアップします。

***

 テレビに映るものにはすべて意味や価値がある。その前提でテレビは見られていると思う。もし、訳がわからないものが映ったとしても、それはすぐ”放送事故”や”シュール”といった言葉で処理される。”アクシデント”という意味や、”意味がわからない”という意味が与えられる。

 意味のないものが意味のないままテレビに映り続けることは、めったにない。少し古い例になるが、『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーだった北陽や橋下徹は稀有なケースだ。彼らは特にレギュラー後半、なんの役割も持たず、なんの役割も持っていない状況が笑いにもならず、橋田壽賀子やピーコのように進行の邪魔という扱いも暗に受けずに、毎週約1時間、ほぼ放置されていた。生放送が生んだ奇跡だったのかもしれない。

 確かに、芸人の場合は、意味を負わずにテレビに出るケースが生じやすい。賞レースやネタ番組でネタが評価され、テレビに出演するパターンが多いためだ。特にコンビの一方のキャラが濃い場合、相方はネタ以外の場面で役割を見いだせずに画面に映り続けるという事態が起こり得る。かつてのオードリー・若林や、博多大吉がそうだったはずだ。

 彼らの救済策は、いくつか用意されている。”じゃない方芸人”という言葉も、そのひとつだろう。目立つ相方の隣にいる目立たない存在という状況を、自虐で笑いに変える。同時に、目立つ相方を引き立てる目立たない技術を、視聴者に啓蒙する。そうこうするうちに、”じゃない方”ではない独自の存在意義を示して生き残る。それこそ若林や大吉が歩んだ道だ。

 30日の『アメトーーク!』(テレビ朝日系)で聞かれたのは、そんな”じゃない方芸人”の新人、宮下草薙・宮下の叫びだった。

123
ページ上部へ戻る

配給映画