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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > ラッパーPablo Blastaインタビュー

「一生消えない心の傷を負わせた」ラッパー・Pablo Blastaがアウトロー時代を包み隠さず歌う理由

アウトロー時代に胸に刺さったRYKEYの言葉

ーーその後はどこでライヴしていたんですか?

「福生です。すぐ近くなんですよ。あそこは米兵とか、不法入国してる外国人がいっぱいいて。そんな福生の外国人が集まるハコは、俺にとって第2の地元といっても過言じゃない。ラッパーとしてめちゃくちゃ鍛えられました。最初は俺らのライヴじゃなくて、外国人ラッパーのサイドMCとして出させてもらったんですけどね。もちろん英語なんてしゃべれないし、客も外国人だから、かなりムズかった。でも、徐々に認めてくるようになって、自分たちのライヴもやらせてもらえるようになりました。慣れてきちゃうと、実はそういうハコってやりやすいんですよ。外国人は基本ノリがいいんで。むしろ、日本人しかいないハコのほうが品定めされる感じがあって、大変だった記憶がありますね。そんな感じでまあまあ調子良かったんだけど、相方の角刈りが突然ラップを辞めると言いだして。18のときですね。俺も悪事のほうが本格化してきて、そこから5年くらいはアウトローになってました」

ーー「ニートTOKYO」でも銃口を向けられた時の話をされてましたね。

「まさに、あれはアウトローだった頃の話ですね。さっきも言ったけど、俺はもともと集団行動があんまり得意じゃないから、ずっとひとりで悪さしてました。窃盗したり、ドラッグ売ったり。でも、だんだん俺の動きが目立ってきちゃって、とある組織の幹部クラスの人に声をかけられたです。『俺の影になって動け』って。悪事の腕を買われた感じ。そのことは誰にも言えない秘密でした。3年くらいはそういう感じで動いてたんだけど、ある仕事で俺がしくじってしまい、その責任を取る形で本格的なアウトローになりました。結局、5年くらいはラップもやってなかった」

ーーラップの世界に戻ってきたのはなぜですか?

「2つ理由があって、ひとつはラッパーの楽しさが忘れられなかったから。もうひとつは、あの世界が俺自身に合ってなかったからですね。お金もあったし、どこに行ってもみんなペコペコしてきたけど、あまり幸せじゃなかった。基本的には暇で、夜になるとみんなで焼肉行って、その後はキャバクラ。ずっとその繰り返しでした。俺、そもそもキャバクラとかあんま好きじゃなくて。だから、当時は『このまま不良を続けていいのか?』とかなり悩んでました」

ーーでも、簡単に辞められる世界ではないですよね?

「はい。RYKEY君が地元の先輩なんですが、ある日、こんなことを言われたんです。『お前自身はどうしたいの? もしもラッパーになりたいなら、お前自身が周囲に認識させていくしかないんじゃない?』って。ちょうどRYKEY君が1stアルバム(15年の『Pretty Jones』)を出した頃です。当時の俺は完全にアウトローの世界に染まってました。悪いことをするのがカッコいいとも思ってた。なんならラップなんてダサいという意識すらあった。だけど、ラッパーの楽しさも忘れられなかった。2つの相反する感情が自分の中にあって、どうしたらいいか本当にわからなかった。だから、RYKEY君の言葉はものすごく胸に刺さったんです。その日から俺は不良の先輩たちの前でフリースタイルしたりして、俺自身が何をしたいのかをわかってもらう努力をしました。そしたら、徐々に先輩たちも俺の気持ちをわかってくれて」

ーーRYKEYさんとはどのように出会ったんですか?

「ラップを始めたばかりの頃なので、16歳のときですね。八王子にZONEというデカいクラブがあったんですが、そこで俺が知らない人に間違えて『お疲れさまです』って声かけちゃったんです。そしたら、いきなりぶん殴られて(笑)。しかも、ネックレスをブチ切られた。すごく大事にしてたネックレスだったから、その人を俺も殴り返しちゃったんですよ。当然、『表出ろ!』みたいなことになって、外で刃物持った外国人集団に囲まれました。その中にRYKEY君がいたんです。俺は刺されるか、土下座するか選ばされました。でも、ラッパーが地元のクラブの前で土下座なんかしたら、もう街を歩けない。だから、土下座はできないと断り続けました。結構長いこと押し問答が続いたんですが、あるタイミングでRYKEY君が『こいつ、気合い入ってるじゃん。俺がここで一発殴って終わりにしてやるよ』と言ってくれたんです。その一発も相当キツいやつでしたが(笑)」

ーーすさまじいファーストコンタクトですね……。

「そこからRYKEY君と顔見知りになったんです。昼間に街で会うと、いきなり俺にフリースタイルしてくるんですよ。いつも鼻のあたりに白い粉がついてて(笑)、当時は『この人は、なんなんだろう?』って思ってましたね。八王子にはいわゆる本筋の不良とは別に不良外国人集団がいて、リッキー君はそこの人だったんです。俺も詳しくは知らないけど、なんかやってんだろうなって。本格的に仲良くなったのは、俺が20歳くらいの頃からですね」

ーー現在のPablo Blastaさんにとって、RYKEYさんはどんな存在ですか?

「恩人であることは間違いないです。あのときのRYKEY君の言葉がなければ、たぶん俺はそのままアウトローの道を突き進んでたと思う。けど一方で、俺とRYKEY君は一緒にいると、お互いの悪い部分をブーストし合ってしまう。RYKEY君は、俺の悪いところも含めてすべてを肯定してくれた。俺もRYKEY君の壊れたところを肯定してた。兄弟みたいな関係です。そうすると、お互いに歯止めが効かなくなってくる。どんどん自制心が無くなってしまう。そして、物事がどんどん悪いほうに転がるんです。当時の俺たちはあらゆるケミカルをやって、ゾンビみたいな人間になってました。トラブルもたくさんあった。不良の先輩にすら心配されました。だから今は、お互いあえて距離をとった関係になっていますね」

ーー「Tokyo Young OG」は、その頃に作ったんですか?

「あの曲を作ったのは、まだアウトローの仕事もしてる頃ですね。あのときの俺は、いろいろあって地元を出ていたんです。ラッパーになりたいけど、何をしていいかわからない、しかも、アウトローの世界からも抜け切れてない。すごく中途半端な状況でしたね。しかも、『やるぞ!』みたいに意気込んで作ったんじゃなくて、潜伏先の家であまりにも暇だったから、『ラップでもするか』みたいなノリでやり始めたんです。ネットで適当にインストを見つけてきて、iPhoneのイヤホンについてるマイクでラップしました。だけど、家に遊びに来た友達がそのラップを聴いて褒めてくれて。それで、ちゃんと録り直して形になったんです」

ーーかなり微妙な状況で作られた曲だったんですね。

「そうですね。正直、あの曲も入ってる『Native PB』というアルバムは、今はもう聴きたくないです。当時の思い出したくない記憶も蘇ってくるから。ただ、『Tokyo Young OG』がきっかけになって『ビッチと会う』に呼んでもらえた。さらに、『ビッチと会う』で俺の名前が広まって、いろんな人から客演のオファーをもらえるようにもなった。本来であれば願ったりかなったりの状況なんだけど、あの頃の俺は全然準備ができてなかった。アウトローの仕事もあって、全然ラップに集中できてなかった。スキル的にも当時のトレンドに全然追いつけてない。今思えば、『Tokyo Young OG』や『ビッチと会う』のタイミングでたくさんいろんな曲を出せてれば、もっといい感じで活動できてたはずです。かなりもったいなかった」

 

『Native PB』

https://linkco.re/cRMp0BvM

『888』

https://linkco.re/4GEAEzRQ

ーー今はラッパーの活動に集中できているんですか?

「はい。ようやくですね。一昨年くらいにはいろいろ片付いて。あと、子どもが生まれたんです。そういうこともあって、俺自身の考え方もかなり変わりました。『Synapse』でようやくリハビリが終わったような気がしてます」

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