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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > ラッパーPablo Blastaインタビュー

「一生消えない心の傷を負わせた」ラッパー・Pablo Blastaがアウトロー時代を包み隠さず歌う理由

Pablo Blasta

 Pablo Blastaというラッパーの名前は、DJ CHARI & DJ TATSUKIによる2017年のヒット曲「ビッチと会う」でフィーチャーされたことで日本のヒップホップ・シーンに広まった。また、同年末には1stアルバム『Native PB』をリリース。収録曲「Tokyo Young OG」では非常に生々しくアウトローの現実を描写し、リスナーに大きな衝撃を与えた。当然、注目の若手ラッパーとして期待されたが、率直に言えば、その波に乗ることはできなかった印象がある。

 そんな彼が19年秋に3rdアルバム『Synapse』を発表し、再び活発な動きを見せている。では、『Native PB』以降、何をしていたのか。そして、そもそもPablo Blastaという男は何者なのかーー。生い立ちから現在に至るまで、ディープすぎる話をしてくれた。

『Synapse』

https://linkco.re/nfumBMfb

売春JKに遊んでもらった小学生時代

ーーPablo Blastaさんは八王子出身なんですよね?

「はい。生まれは杉並区の永福町らしいですけど。物心ついた頃からずっと八王子にいます」

ーーどんな家庭で育ったんですか?

「普通の家庭ではあったけど、ものすごく貧乏でしたね。昔は金持ちだったらしいけど。じいちゃんが日本の景気がいいときに建設会社を作って、地元の名士みたいなレベルで儲かってたみたい。その会社を父ちゃんとその兄弟が継いだんだけど、バブルが弾けて……。かなり業績が落ちた上に、父ちゃんがボケちゃったんです。そしたら、さらにいろいろトラブルが重なって、貧乏になった。今思えば、母ちゃんは地元でかなり肩身が狭かったんじゃないかな」

ーーそうした環境がPablo Blastaさんにどんな影響を与えたと思いますか?

「小学生の頃とかって、友達の家でゲームしたりしますよね? でも、ウチにはゲーム機がなかったから、遊び方がわかんなかったんです。俺はみんながゲームやってるのを見てたんだけど、だんだんそこにいづらくなってきちゃって。いじめられた記憶はないんですけど、『ここは俺の居場所じゃねぇな』みたく思うようになったんです。疎外感というか。当時、俺が通ってた小学校には俺みたいな感じのヤツが3人くらいいたので、小学5年あたりからそいつらとばっかり遊ぶようになったのを覚えていますね」

ーーどんな遊びをしてたんですか?

「女子高生に遊んでもらってました(笑)。実は中学生だったかもしれないけど、限りなく女子高生に近いくらいの年齢のお姉さんたち。その娘たちはいつもスゲー金持ってて。遊園地に連れてってくれましたね」

ーーそのお姉さんたちとはどのように知り合ったんですか?

「俺らは金がないから、いつも公園で遊んでたんです。ウチの地元は夕方5時になると子どもは公園で遊んじゃいけないことになってたんですけど、“青い公園”と呼ばれている公園だけは、なぜか5時過ぎても遊んでられたんですよ。だから、俺らはいつもそこにたまってたんです。そしたら、実はこの“青い公園”が地元で超有名な売春スポットで。すぐそばのバカ高校に通う女の子たちが立ちんぼしてたんですよ。しかも、その公園の草むらとかでヤッてて。俺らは偶然そういう現場を目撃しちゃったんですよ。そこからお姉ちゃんたちと仲良くなりました。俺らが『ヤラせてくれよ』って言ったら、『チン毛生えたらヤラせてやるよ』って返されたをよく覚えてますね(笑)」

ーーでは、本格的にグレ始めたのは小学校の高学年くらいから?

「いや、中学からです。喧嘩ばっかしてました。八王子って東京都ではあるけど、神奈川県の相模原もすぐそばにあって、学区が複雑に入り組んでる。中学校もめちゃくちゃたくさんあって。10校対10校で刃物アリの乱闘とかよくしてました。ニュースにもなったし。あとは暴走行為かな。ルパンみたいな友達がなんでも盗んできて、一時期はカブ(ホンダ・スーパーカブ)、ZX(ホンダのライブDio ZX)、Ape(ホンダのエイプ)を所有してました。でも、暴走族にはそんなに興味がなかった。ただ、原付に乗って走り回るだけ。当時は特にやりたいこともなかったし」

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