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萱野稔人と巡る超・人間学

萱野稔人と巡る【超・人間学】人間の本性としての暴力と協力(後編)

“協力”のベクトルが“暴力”に!?

(写真/永峰拓也)

萱野 川合さんはご著書からも拝見できるように、人間は他者に対して攻撃的であるよりも協力的であるように進化してきた存在だと考えておられますね。

川合 近年、さまざまな分野の研究、実験で、人間は生得的に他者を援助する生き物であるということがわかってきました。たとえば、生後6カ月ぐらいの赤ちゃんであっても、紙芝居のようなものを使って“他者を援助するキャラクター”と“他者の邪魔をするキャラクター”を見せると、援助するキャラクターを好み、邪魔するキャラクターを嫌うという傾向がはっきりと出るのです。倫理や社会の価値観を学ぶ前の赤ちゃんがこうした傾向を持っていることは、人間が本来どういう生き物なのか、強く反映しているといえるでしょう。

萱野 今のご指摘は、人間の本質を考える上できわめて示唆的です。要するに、人間はいわゆる「真っ白な状態」で生まれてくるわけではない、ということですね。人間は親から道徳を教えられたり、社会的な経験から道徳を学んだりする前から、一定の道徳的な傾向性を持っている。

川合 かつては実験心理学でも人間を生来的に攻撃的な存在とする考え方が主流でしたが、この10年ぐらいの間に研究が進んで、かなり変わりましたね。

萱野 人文社会の学問の世界には、社会構成主義といわれる考えが根強く残っています。これは社会構築主義などとも呼ばれますが、要するに人間の道徳観や価値観というものはすべて社会的につくられたものだ、と考える立場のことです。たとえば社会構成主義に立つジェンダー論では、性差そのものは生物学的なものだとしても、その性差をめぐる規範意識――「男らしさ」や「女らしさ」という規範や、性別役割分業など――はすべて社会的につくられたものだと強固に考えられています。こうした社会構成主義の理論的な前提となっているのは、人間は「白紙の状態」で生まれてくる、という観念です。しかし、近年の進化心理学や認知科学、脳科学の進展によって、こうした社会構成主義の前提が単なる非科学的な思い込みに過ぎないことが明らかになってしまいました。

川合 心理学の世界でも昔は“経験論”が唱えられていました。人間は“タブラ・ラサ(空白の石版)”であって、ここに生後の経験が書き込まれていくという人間観です。ただ、このような経験論はもはや過去のもので、心理学では“白紙”なんてあり得ないということは共有されていると思います。

萱野 人文社会の分野における一部の学者たちは、科学的に考えることよりも、どのような理論を採用することが自分たちの政治的な主張にとって有利となるのか、というイデオロギー的な観点からものごとを考えがちです。興味深いのは、そうした学者たちが集まる学会や研究会ほど、同調圧力が強いということです。同調圧力が強いそうした学者の集団を見ていると、いくらその集団が口ではリベラルな主張をしていても、いかに人間は集団から排除されることを恐れているのか、そしてその裏返しとして、いかに集団の凝縮性を高めるために目障りな存在を排除したがっているのかがよくわかります。

川合 身近な例でいえば、仲間はずれやいじめもそういうものでしょう。自分たちの仲間から誰かを外して集団の凝縮性を高めているときに、それをやめようと言い出すことは難しい。集団への帰属志向は、協力と暴力の両方に働きかけるものといえます。

萱野 とすると、集団的な暴力は、人間が本来持っている、集団で協力するというベクトルの副産物だということでしょうか?

川合 人間の協力的なベクトルと暴力的なベクトルは裏表の対になったものではなく、違う次元に属しているものではないかと思います。たとえば戦時中の日本は国民がある意味で団結して戦争という大きな暴力に向かっていきました。皆が自分たちの資源を出し合い、援助し合って戦争という暴力を推し進めていったわけです。人間は無自覚のうちに協力してしまうもので、それがどういった方向に向かうのかは、そのときの指導者や社会情勢によって異なってくるのだと思います。

萱野 日本が太平洋戦争へと突入していった背景には、国民がそれを熱狂的に支持したという側面も大きくありました。それだけ、国家間の生存競争をめぐる危機感が国民に広く共有されていたということでしょうか。

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