菅官房長官が“殺された”のは必然か? 人望もカネも潤沢ではない男が側近スキャンダルで窮地に
#週刊誌 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
さらにポスト。暇ネタの最たるものが「史上最高のAV女優ランキング」という企画である。
作っておけば、春夏秋冬、いつでも掲載できるからだ。
ポストは現役人気AV女優たち47人に聞いたという。
歴代トップ20人がズラリと並んでいる。ベスト5は、1位から、波多野結衣、風間ゆみ、大槻ひびき、明日花キララ、吉沢明歩。
私の好きな白石茉莉奈は13位、桜樹ルイは15位だが、「レジェンド女優」では、松坂季実子、風間ゆみに続いて堂々の第3位になっている。
今晩は、桜樹ルイの昔のDVDでも見ながらひとりで盛り上がるか。チョッピリ寂しいがね。
現代は、ノンフィクション作家の田崎健太で、「ザ・芸能界」という連載を始めた。
第1回は、11月27日、「日本音楽事業者協会」(通称音事協)の本部で、加盟社に向けた新しい「標準契約書」の説明会が行われ、多くの芸能プロの人間が集まったという。
そこでは、公正取引委員会の笠原慎吾・経済調査室長がこう切り出したそうだ。
「自由かつ公正な競争の必要性という観点において(芸能界を含めた)不当な人材の取引を注視している」
ジャニーズ事務所がSMAP解散で出て行った3人を使わないようにテレビ局に圧力をかけたという疑惑や、吉本興業の闇営業問題、能年玲奈が独立するにあたって、本名を使わせないなど、このところ明るみに出てきた芸能プロのやり方に、公取委が乗り出してきているのだ。
だが、旧態然としたこの世界では、世間の常識や道理が理解できない連中がまだまだいるようだ。
ここでも質問に出たように、タレント一人を育てるのに元手がかかる、売れないこともある、そうしたリスクを芸能プロ側は背負っているのだ、特殊な世界なのだから、余計な口は挟むなという考えである。
レッスンなどの育成費用、売り込みにかかる宣伝費などを芸能プロ側が負担するのだといういい分は、おそらく、芸能界ができた頃からあったのであろう。
だからといって、タレントや芸人を不当に安く働かせ、契約内容さえ伝えないでいいはずはない。
この連中のいい分は、企業にもそっくり当てはまる。学校出たばかりの新入社員を研修し、仕事を覚えさせ、ふた昔前なら、海外留学までさせて育てるが、その人間がある日突然、辞めると宣言して競合他社に行ってしまうことはままある。
それを、あいつがあそこまでなったのは、この会社の力があったからだ。この世に人材を送り出してやったんだと思える経営者は、まずいないだろう。
だが、そうした人材を輩出する企業には、必ず、多くの有為な人材が育つものだ。
オレが育ててやったんだから、オレのいうことを聞け。オレが与えるカネで満足しろ。結婚はファンが嫌がるから許さない。
そんなことがいつまでもまかり通るわけはない。芸能界が近代化されなければ、小さくまとまったタレントやお笑い芸人しか出てこない。
世界に通用する歌手や俳優・女優、芸人が出てこないのは、そこに原因があると私は考えている。
今後、田崎の筆がどこへ向かうのか、注目していたい。
お次は現代の人気コラム。伊集院静の「それがどうした 男たちの流儀」は、一冊にまとまるとベストセラーになる、現代のドル箱エッセイである。
昔、競輪競馬に麻雀狂いで勇名を馳せた伊集院は、女性にもよくモテた。
男として生まれたら、ああいう生き方をしてみたい、そう思わせる「男気」が彼にはあった。
だが、ある時期から仙台だかに移り住み、青少年に生き方を垂れるものを書き始めて、私は伊集院のものを読まなくなった。
無頼で生きてきた男は、死ぬまで無頼でいてもらいたかった。
彼から無頼を取っ払ったら、何が残るのだろう。そんなものを誰が読むのだろう。
今週は「連載第464回」である。正月の風景から始まる。
「今年の正月を一家全員が揃って迎える家族が、日本中で何家族あるかは知らないが、おそらく全戸数の三分の一もないのだろう。
さまざまな事情で、皆が集まることができない。(中略)人間は大人になればなるほど、生きる上の事情を抱える」
そこから伊集院は、自分は今年も、生家のある山口県の小さな港町で正月を迎えると書き進める。
なぜそうしたのか。亡くなった父親がそうさせた、半分命令だったという。
「皆が無事に揃って、正月は迎えるものなのだ。一人でも欠けてはならない」
伊集院は私より少し下だが、うちのオヤジもそうだった。
元日は家族が揃うものだと考えていたから、社会人になって、時々仕事でいないと、明らかに嫌な顔をした。
伊集院は父親が亡くなってからも正月は生家に還っているようだ。すごいとは思わない。故郷のある人間はそうするのだろうと思うだけだ。
私のように東京にしか家も親族もない人間には、正月は空がきれいで人が少ない静けさを味わう祝日であった。
伊集院は、そこから、新聞連載している夏目漱石の話に広がり、昔は町内に一つはあったという寄席小屋の話へと展開していく。
失礼だが彼らしい切れ味も、蘊蓄もない。
連載コラムのうまさなら、新潮の五木寛之のほうが上ではないか。どうでもいいことから始めて、五木ワールドへとつなげる技は、熟練である。
読み終わって、そうかと気づいた。だからタイトルが「それがどうした」なのだ。読み終わり、読者に少し不満が残ると伊集院はいうのだ。「それがどうした」と。
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