萱野稔人と巡る【超・人間学】人間の本性としての暴力と協力(前編)
#萱野稔人 #超・人間学
暴力を独占する国家と人間の脱暴力化
萱野 理性ということでいえば、近代国家の成立も暴力の減少に役立っています。これもスティーブン・ピンカーが指摘していることですが、近代国家が成立して以降、暴力で命を落とす人の割合は加速度的に減少していきました。近代国家の一番の特徴とは、各人が他者との争いを解決するために暴力を用いることを禁止することです。これを合法的な暴力の独占といいます。これによって人々は、自ら暴力によって事に当たることをやめ、いざというときには国家の強制力に紛争などの解決を委ねるようになります。これが歴史的に積み重ねられていくことによって、私たちは非暴力的な社会生活を当たり前のものとするようになっていきました。これはいわば社会的なしくみによる人類の“自己家畜化”のプロセスですね。近代のヨーロッパ人は近代国家が成立していることを理性の発現だとみなしましたが、それになぞらえるなら、これは理性による人類の“自己家畜化”といえるかもしれません。
川合 確かに人間は動物ではあるのですが、チンパンジーなどと異なり、動物性がそのまま剥き出しになった存在ではなく、国家や文化といった環境までを含めた存在といえます。そうなると、そうした環境の変化は恐らく我々の進化にもダイレクトに関わっているでしょう。
萱野 私たちの道徳意識にはルールを逸脱した者への強い処罰感情が備わっています。たとえば凶悪犯罪を目の当たりにすると、多くの人が「犯人を死刑にしろ」などと主張します。しかしいくら処罰感情が強くても、「被害者に復讐させるべき」とはなかなかいいません。これは近代国家の成立も含めた、人類の文明化がもたらした効用のひとつだと私は思います。つまり、被害者が加害者に直接復讐できるような私刑を認めてしまうと、暴力の連鎖が発生してしまう。それがわかっているから、国家と法による処罰を望むわけです。どれほど暴力的で厳しい処罰を求めても、復讐などの自力救済による暴力はちゃんと回避している。これは社会が脱暴力化してきたことのひとつの証しだと思います。
川合 それはおっしゃる通りですね。司法制度が不十分でしっかりと信頼を得てないような社会だと、逆に復讐や私刑を望む声が多くなるのかもしれません。ただ、実際に何かあったとき、自分たちで暴力を使って解決するという社会はかなりしんどいでしょう。暴力という手段を国家に預けてしまうことによって、私たちはかなり身軽に生きられるようになってきたんだと思います。
萱野 暴力という手段を手放すことで、私たちは自らの行動を長期的な視野のもとで組み立てるようになりました。たとえばお金が欲しいと思ったとき、暴力によって目の前の人からお金を奪おうとするのではなく、たとえば努力して人の役に立つことでお金を稼ごうとする、というようにです。私たちが理性と呼ぶのは、そうした暴力の放棄による行動の長期化のことなのではないでしょうか。(月刊サイゾー12月号より)
(次号に続く)
川合伸幸
1966年生まれ。日本学術振興会特別研究員、京都大学霊長類研究所研究員などを経て、現職。研究領域は比較認知科学、実験心理学など。文部科学大臣表彰・若手科学者賞、米国心理学会 The Frank A. Beach Comparative Psychology Award、日本学術振興会賞、など受賞歴多数。主な著書に『ヒトの本性』『怒りを鎮める うまく謝る』(共に講談社現代新書)など。
萱野稔人
1970年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。主な著書に『国家とは何か』(以文社)、『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書)、『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』(小社刊行)など。
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