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『灘校物語』出版記念特別コラム

なぜ同じ東大卒でも、有能な人間と無能な人間に分かれるのか

どこの大学を出ていても、できる奴とダメな奴がいる

 さて、森友のときも、今回の桜を見る会の問題にしても、官僚のやることや答弁があまりに情けないという声が強い。

 誰が見ても嘘に思われるような答弁をし、また話が二転三転する。

 子どもの教育に悪いこと甚だしい。

 道徳教育を推し進める安倍氏はこれをどう思っているのだろうか?

 こういう姿をみて「東大を出ていてもダメな奴がいる」と思ってもらえればいいのだが「東大出はやはりダメ」という話になると、子どもの動機を削いでしまう。

 もちろん東大を出ていることで得をしている人は「彼らは例外。ちゃんと勉強しないとダメ」と子どもに教えるだろうから、だまされるのは庶民だけだ。結局、これが庶民の子が勉強しなくなる原因となり、格差を作ってしまう。

 当たり前のことだが、どこの大学を出ていても、できる奴とダメな奴がいる。

 はっきりいって、佐川とかいう前の国税庁の長官にしても、今回の内閣府の官僚にしても東大出の中のダメな奴だ。

 仕事ができるから出世をしているというが、上から言われたことができるだけだろう。この30年不況をみてもわかるように、日本の官僚が仕事ができると思えない。政治家が頼りないから、官僚が政策立案をするわけだが、斬新なアイディアが出せず、日本を変えられないから、アジアの諸外国にもいろいろな分野で負け始めている。

 本当に仕事ができる人間なら、はるかにいい条件で民間や外資に引き抜かれるのだから、あんな恥ずかしい姿を、テレビに映るというのにさらすわけがない。さっさと本当のことを言うか、この手の情けない答弁をさせられる前に、辞職して転職しているはずだ。

 佐川なる人物も、再就職の話を聞かない。

 要するに無能なのだ。

 では、なぜ同じ東大卒でも、有能な人間と無能な人間に分かれるのだろうか?

 私は、東大に入る人間には2種類しかないと思っている。

 一種類は、親や学校や塾の言いなりになって勉強して、たまたま勉強ができて東大に入る人間(通常は学校の言いなりの鈍臭い勉強法では東大に入れないが、異様な努力や記憶力で入る人間もいる)。

 もう一種類は、学校や塾の言いなりにならず、勉強法を工夫したり、勉強法の本を読んであれこれ試してみて、自分に合った勉強法を見つけて東大に受かる人間だ。

 昔は半々くらいいた気がするが、今は私の勉強法の本も売れていないので、前者が7割、後者が3割くらいだろうか。

 もちろん、前者のほうは大学に入ってからも教授のいいなり、でもそのほうが優がたくさん取れるので、官僚などになってしまい、結果的に、そこでも上の言いなりの忖度官僚になるのだろう。

 たまたま家でワイン会をやっているときに、私の本を読んで無名校から慶応に入り、外資のトレーダーとして大成功し、自分の子どもの教育に専念するためにさっさと仕事をやめ、投資家をやりながら子育てをして、それなのに私の何十倍か何百倍も稼いでいる人に出会った。

 こっちが恥ずかしくなるくらい、私を尊敬しているといい、一生の恩人ともいう。

 教育論でも意気投合したのだが、安倍氏に対する評価は私とは真反対だった。

 私は安倍氏の経済政策は金持ちしか得をしないし、外国と比べて恐ろしいほどの低成長なのだから、誰でもいいから変えたほうがましと思っているが、彼は、やはり政権の安定性が大切だという。結局、彼が折れることはなかった。

 私も考えを変えなかった。ただ、私は、これは素晴らしいことと思う。塾の言いなり、学校の言いなりでいい大学に入った人間は、結局、こういう際でも、自分が偉いと思っている人の言いなりになってしまうだろう。

 私の勉強法で名門大学に入った人間は、そもそも教師のいうことなど聞くなと言っているのだから、そんな風にならないようだ。

 おそらく信者のように一字一句私のやり方に従うのではなく、アレンジもしたのだろう。

 勉強法を工夫して大学に入った人間は、それを通じて考える力をつけるようだ。少なくとも、上のいいなりにならない姿勢は評価できる。

 実は、12月6日発売で、私の小説デビュー作(『受験のシンデレラ』小学館文庫は、映画からノベライズしたものなので、小説とは考えていない)『灘校物語』(小社刊)が出た。

 私の灘中、灘高時代の苦闘を描いた自叙伝的小説だ。

 テーマは、勉強しか取り柄のない子どもが、その取り柄もなくなった際にどう悪あがきをするかという話だ。

 最後は、受験テクニックを編み出して東大理3に受かるという話だが、当時の私は、そんなのペテンとしか思えなかった。

 カンニングはしていないが、ズルをして受かったとしか思えなかった。

 ただ、一般の公立の高校の連中は、そのズルの仕方を知らないだけと思ったので、罪滅ぼしのつもりもあって、「学校の言うことなど聞かずに、テクニックを身につければ受かるよ」ということを伝えたくて、『受験は要領』(PHP文庫)という本を書いた。

 これが大ヒットして、その後も受験稼業に足をつっこむわけだが、この10年くらい、ちゃんと勉強して大学に合格するより、テクニックを探すほうが、むしろその後の生き方にいい影響を与えると思えるようになった。

 たとえば仕事で行き詰まったとき、自分は才能がないと思うより、自分のやり方が悪いのではないかと思えるほうが、たとえば営業なら営業のテクニック書を読むことで、あれこれ試しているうちに打開が図れるだろう。

 よく名門校から東大に入って、さらに財務省に入った人が、次官レースに敗れて悲観してうつになったり、最悪自殺するなんて話を聞くが、ほかに幸せになれる方法があるはずだと思えれば少なくとも最悪の事態を避けられるし、うつにもならなくて済む。

 受験勉強で考える力というのは、目の前にある問題を考えることができる力ではない。

 そうではなくて、その問題が解けなくてもどうすれば受かるかを考える力だ。

 学校の言いなりにならず、自分の能力を分析し、志望校の問題を分析し、その上で、どうすれば志望校の最低点を取れるかを考える。こういう体験を受験生の時にしておけば、将来必ず役に立つはずだ。

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