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『灘校物語』出版記念特別コラム

なぜ同じ東大卒でも、有能な人間と無能な人間に分かれるのか

『灘校物語』(和田秀樹・著/サイゾー・刊/定価1600円+税

※本記事は『灘校物語』(小社刊)の出版を記念して、「まぐまぐ!」にて12月7日に配信された「和田秀樹の『テレビでもラジオでも言えないわたしの本音』」(https://www.mag2.com/m/0001686028.html)を加筆修正し、再掲載したものです。

◇ ◇ ◇

「桜を見る会」問題は相変わらず続いているが、自民党は国会の会期延長をしないので、この問題もすぐに冷めるだろう。

 一億総アルツハイマーというとアルツハイマーの人に失礼なので使いたくない言葉だが、この国の人間の物忘れは恐ろしい。

 森友や加計問題はともかくとして、たとえばかつての小渕優子の公職選挙法違反まがいのことは誰もが忘れているはずだ。

 代々、政治家の家に生まれると、親から「国民はみんな忘れてくれる。とにかく適当に時間を稼いで、時が過ぎるのを待て」と教わるのだろう。

 嘘をつくのが恥ずかしいことだと思えば失脚するが、どうせ国民は忘れるとタカが括れる人間は政治家をずっと続けていられる

 私の関心事の一つに立証責任というものがある。

 たとえば贈収賄事件の場合、日本の法律では検察側が賄賂性を立証しないと裁判では勝てない。お金の受け渡しが明らかになっていて、その上、どうみても便宜を図っていても、「偶然」で通してしまうと裁判で勝てないことがある。

 金をもらっている側が「賄賂でない」という立証責任を負うようにすれば、話は違ってくるだろう。その上、どうも日本は検察と国税が仲が悪いらしく、金をもらっていて申告していなければ脱税で上げればいいのに、そんな話はめったに聞かない。

 殺人にしても、殺意を検察が立証しないと、傷害致死になってしまうことがままある。人を殺したのだから殺意がなかったことを殺した側が立証できなければ殺人ということにすればいいのに、そうはなっていない。

 今回の「桜を見る会」も同じことだ。

 税金を何に使うかを決められるのは政府与党側なのだから、本来は、やましいことに使っていないという立証責任は政府与党側にあるはずだ。

 ところが、野党がちゃんとした証拠をつきつけないと門前払いのような扱いを受ける。

 予算の執行者側がやましくないことを立証できないといけないようにしておけば、資料の廃棄などとてもできないはずだが、野党側が証拠をつきつけないといけないので、平気で資料の廃棄が行われる。

 立証責任の問題を、一度真剣に考えないといけない時期がきているように思えてならない。

 日本の現行刑法は明治40年に制定されてから、マイナーチェンジはあっても大筋は変わっていない。明治時代に制定されたものなのに、新刑法と言われている(ちなみに旧刑法は明治13年制定)。

 憲法が古いというのなら刑法のほうがよほど古いし、代用監獄が当たり前に使われている国は先進国では日本だけだ。

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