小説から始まり、映画、ゲームまで…世界的人気を誇る新金脈! 急速に広がる“中国SF”の世界
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SFは実は体制批判なのか?
従来、英米にはほとんど紹介されていなかった中国SFが、多く英訳されるようになったのは、中国系アメリカ人のSF作家、ケン・リュウの功績が大きい。『紙の動物園』(早川書房)など、自身のSF小説を数多く執筆する傍ら、ケン・リュウは中国SFの翻訳も多く手がけた。そのケン・リュウが編者となって、複数の作家による中国SFの優れた短編を集めたアンソロジーが『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)である。
中国では、経済成長の一方で格差社会化も進むと共に、IT技術の進歩を背景とした、高度な監視社会が現実のものとなりつつある。『折りたたみ北京』には、そんな現代中国をSFの形を借りて風刺したとも取れそうな作品が多く収録されている。
例えば表題作である、景芳(ハオ・ジンファン)の『折りたたみ北京』では、北京は富裕層が住む第一スペース、中間層が住む第二スペース、貧困層が住む第三スペースに完全に分断されており、定刻が来ると地面が回転して収納された人たちが眠りにつくのだが、第一スペースの住人には午前6時から翌朝6時までの時間が割り当てられているのに対し、第三スペースの貧困層は午後10時から午前6時の夜間に活動しなければならない。
第一スペースと第三スペースは物価も生活様式も完全に別世界であり、お互いの住人たちはほとんど交流することはない。これを読む欧米や日本の読者は、農村と都市、富裕層と貧困層の格差が広がる中国の現実のことが、必然的に頭をよぎるだろう。
また、これも同書に収録されている馬伯庸(マー・ボーヨン)の『沈黙都市』という短編では、社会は極めて厳格な言論統制社会となっており、言ってはならない言葉が決められる状態からさらに進んで“言ってもよい”と許可された言葉しか話してはいけないことになっている。
ネットは国から与えられたIDでしか書き込むことはできず、口元にはフィルター付きマスクを装着させられ、発する言葉もすべて国家に監視されている。
周知のように、実際の中国も、言論統制の強い社会であり、ネットではグーグルやフェイスブックといった外国のサービスは使うことができず、百度や微博といった国産のプラットフォームでは、政府批判ができないよう、厳しい監視が行われている。89年の天安門事件について書き込むことは最大級のタブーであり、事件が起こった八九六四(89年6月4日)という数字も検索することができないというのは、よく知られている。
これらの作品については、SFの形を借りた社会批判であると読み解くこともできそうで、日本人としては、ついそのような読み方をしてしまいたくなるだろう。
だが、『折りたたみ北京』の編者のケン・リュウは、同書の冒頭にある解説で、そのように中国SFを中国社会への批判のメタファーだと解釈したい、という誘惑に対し、読者は抵抗してほしい、と書いている。いわく「中国の作家の政治的関心が西側の読者の期待するものと同じだと想像するのは、よく言って傲慢であり、悪く言えば危険なのです。中国の作家たちは、地球について、単に中国だけではなく人類全体について、言葉を発しており、その観点から彼らの作品を理解しようとするほうがはるかに実りの多いアプローチである、と私は思います」とのことである。
この点について、前出の大森望氏は、このような見方を述べる。
「中国のSF作家たちが、政治的な意図はないと言うのには、2つの意味があるような気がします。ひとつは、せっかく今のところ自由に書けているのに、体制批判だと取られたら不自由になってしまうから、余計なことは言わないでくれ、と。もうひとつは、劉慈欣が典型ですが、自分はSFが好きでSFを書いているのであって、SFを何かの道具に使っているわけではない、ということですね」
とは言いながら大森氏は、特にアメリカの読者は『三体』の第二部以降の展開に、中国とアメリカの技術競争のメタファーを読み取った人が多かったようだ、とも付け加える。アメリカでは、現代中国を理解するためのツールとしても、『三体』はよく読まれたという経緯があったようだ。
折しも、トランプ政権と習近平体制の間では、中国の携帯電話メーカー、ファーウェイをめぐる貿易摩擦が緊張を増している。また、先頃は香港で、中国へ刑事事件の容疑者を引き渡す「逃亡犯条例」の改正案の撤回を求めた大規模なデモが発生。また、新疆ではウイグル人に対する厳しい弾圧が行われているなど、中国SFにそういった政治問題を読み取ろうとするか、それとも純粋にSFとしてだけ楽しむかは、読者個々人によって分かれるところだろう。
中国人たちに天安門事件の思い出をインタビューした『八九六四「天安門事件」は再び起きるか』(KADOKAWA)など、中国を取材した多くの著作がある安田峰俊氏は、中国人の心象風景についてこのように話す。
「日本人には、文明が進歩するとかえって悪いことが起こる、と警鐘を鳴らす考えがかなり強いと思うのですが、中国人にはあまりそういう考えはないんです。ほとんどの人は、この20~30年で中国が急速に豊かになったことを素直に喜んでいる。格差社会といっても、貧しい人たちだって10年前と比べれば、確実にボトムアップしているので、昔と比べたら今のほうがいい、と思っている人がほとんどでしょうね。また、日本人はまだ弱者や高齢者に合わせようという考えが多少はありますが、トップを走る人を基準にして、皆でそこに追いつこうとしているのが、今の中国の基本的な生き方であり、社会の仕組みになっているんです」
そうすると、文明が進歩すると悲惨な未来が待っているという類いの、一部のディストピア的な中国SFは、別に国家批判ではなく、単なる想像力の楽しみ、センス・オブ・ワンダーとして読むのが正しいのだろうか。
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