ジャッキー・チェンは今や傍流…ブルース・リーから『イップ・マン』へ! カンフー映画の盛衰と進化の旅
#映画 #中国 #香港
――ブルース・リーやジャッキー・チェンの主演作を中心に、日本でも一大ブームを巻き起こし、後にハリウッド映画にも大きな影響を与えたカンフー映画。一方、近年の日本で話題になったのはジャッキーの主演作程度だ。こうしたカンフー映画は、その原産地の香港と、返還を受けた中国でどのように進化を遂げたのか?
本誌読者であれば、一度は心を奪われたはずのブルース・リーやジャッキー・チェンのカンフー映画。本稿では1970~80年代に世界的ブームとなった香港産カンフー映画が、後の香港・中国映画に与えた影響、そして近年のカンフー映画の状況を有識者の声を交えながら探っていく。まずは、ファンの間では広く知られたカンフー映画の歴史や基礎知識をざっくりとおさらいしておこう。
日本でカンフー映画が広く知られるようになったのは、73年の『燃えよドラゴン』(ブルース・リー主演)公開からだが、それ以前にもカンフー映画と呼べる作品は存在した。一般的に「カンフー映画の元祖」といわれるのは、実在の武術家のウォン・フェイホンをモデルにした49年の作品『黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭』。そして50年代には、彼を主人公とした作品の量産が始まり、香港ではカンフーの見せ場をメインに据えた作品が多くなった。
その中で生まれたヒット作のひとつがジミー・ウォング監督・主演『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』(70年)だったが、アメリカで同作品を見たブルース・リーはアクションのレベルの低さに憤慨。彼が香港で映画製作を行うきっかけになったという有名な逸話がある。そして語り尽くされている話だが、截拳道(ジークンドー)の創始者であり本格的な武道家であるブルース・リーが見せたアクションは、それまでの映画史のアクションとはまったく別次元のものだった。アクション映画、アジア映画について主に執筆するライターの藤本洋輔氏は次のように話す。
「ブルース・リーは現役の武道家として、さまざまな格闘技の要素を映画に持ち込んだ功績も大きいです。カンフーと聞くと中国武術をイメージする人が多いと思いますが、そこには多くの格闘技の要素が取り入れられています。特にブルース・リーは、極めて実践的な技術体系を持った詠春拳(少林武術を元にしたとされる徒手武術)をベースに、実際に総合格闘技の要素も取り入れている。映画を見ればわかるように、ブルース・リーは当時からフィンガーグローブを使用しており、関節技を決める場面もありました」(藤本氏)
若い頃から路上でケンカに明け暮れていたブルース・リーは、武道家になってからもあらゆる格闘技を研究。蹴り技ではクラシックバレエの動きも参考にしたという逸話も残っている。既存の武道の形から自由なブルース・リーのアクションが世界に衝撃を与えた一方で、ジャッキー・チェンのアクションもまた違った新しさを持っていた。
「ジャッキー・チェンは映画のスタントの技術体系を作り上げた人であり、それまではシリアスなアクションがベースだったカンフー映画に、コメディテイストを取り入れた人でもありました。その背景には、ジャッキーが(サモ・ハン、ユン・ピョウらも学んだ)七小福という京劇のグループに所属していたことと、バスター・キートン等のサイレント時代の喜劇俳優の影響があるでしょう。またジャッキーも(アメリカの格闘家)ベニー・ユキーデと戦う『スパルタンX』(84年)で総合格闘技も取り入れている。中国武術が中心の動きだったカンフー映画は、その頃からさまざまな要素を取り入れて進化を続けてきました」(藤本氏)
映画評論家のくれい響氏もこう続ける。
「80年にジャッキー・チェンが監督・主演した『ヤング・マスター/師弟出馬』はカンフー映画の集大成的な作品で、それ以前のカンフー映画を過去のものにした作品と言えます。また香港の映画界では、82年に海外のアクションを取り入れた『悪漢探偵』が記録的なヒットを樹立し、カーアクションやガンアクションの映画への需要が増加。ジャッキーも『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(85年)など現代の刑事モノに進出するようになりました」
そうした現代香港を舞台とした作品群の中で、特に話題を呼んだのがジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』(86年)だ。香港黒社会に生きる男たちの友情と裏切りを、激しいアクションとともに描いた同作は、“香港ノワール”の代表的な作品で国外での人気も高い。同作について映画ライターの平田裕介氏はこう話す。
「カンフーではなくガンアクションの映画ですが、この作品にも香港映画ならではの過剰さやケレン味があります。実際に撃ったら当たりそうにない2丁拳銃も、そのカッコよさにしびれましたし、チョウ・ユンファが昔の仲間にリンチされる場面で、後ろにJALのネオンが映っているような香港のエキゾチックな景色もいいんです」
あらゆる要素が過剰で、ごちゃ混ぜ感が強いのは、カンフー映画を含めた香港映画の特徴だろう。映画批評家の佐藤忠男氏は『中国映画の100年』(二玄社)で、『ポリス・ストーリー』や『男たちの挽歌』などに触れながら「香港映画は呆れるほどに猛烈なアクションで娯楽性を追求する」と言及。香港にはまったく違う種類があることを強調し、カンフー映画は「概して言えば子ども向きの低俗もの」と述べつつも、その頃の香港映画の状況をこう分析していた。
「京劇のアクロバット演技の伝統に、商業だけが存在理由の香港の土地柄が結びつき、さらに1997年に本土返還になったらあとはどうなるかわからないから稼げるうちに稼げるだけ稼がねばならないという強い意志でそれが強化されて、世界の映画史上でも珍しい徹底した商業主義路線が成立した」(佐藤忠男・前掲書)
続く90年代のカンフー映画ではジェット・リー主演の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズ(91年~)がヒット。古装片(時代劇)のブームが起こるが、長くは続かなかった。
「ドニー・イェンが作品に主演するようになったのもその頃からですが、当時の香港はアクション映画が不遇の時代。彼も苦労を続けましたし、すでに香港でキャリアを築いた人たちは活躍の場を海外に移していきました」(くれい氏)
そして99年に大ヒットしたハリウッド映画『マトリックス』にはカンフーアクション指導としてユエン・ウーピン(『ドランクモンキー 酔拳』などを監督)が参加。彼は00年の中国・香港・台湾・米国合作映画で米国アカデミー賞4部門を受賞の『グリーン・デスティニー』(00年)やタランティーノ監督の『キル・ビル』(03年~)シリーズにも参加することになる。
「これらの映画はハリウッドと香港のハイブリッドな作品なんですよね。『マトリックス』では、キアヌ・リーブスが最先端のVFXと融合したカンフーアクションを見せていますし、『グリーン・デスティニー』の竹林の中を舞うようなアクションは、香港最初の巨匠といわれているキン・フーのワイヤーワークをCG処理でさらに進化させたもの。ちなみにその頃は、三銃士がワイヤーワークで飛び回る『ヤング・ブラッド』(01年)という映画までありました(笑)。当時はハリウッドもスタローン的な肉体を売りにした俳優のアクション映画が一段落した時期で、アクション映画に新しい要素を求めていました」(平田氏)
同時期にはジャッキー・チェンやジョン・ウーもハリウッドに進出。香港のカンフー映画の技術体系や、そこで育った人材は世界の映画市場に羽ばたいていく。
「一方で香港では、93年の『ジュラシック・パーク』の公開の頃からハリウッド映画が強くなり、自国の映画の製作本数が減少傾向に。ブルース・リーやジャッキー・チェンの映画を手がけてきた映画会社・ゴールデン・ハーベストのスタジオが98年に閉鎖したのは、そんな時代の変化を象徴する出来事でした」(くれい氏)
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