
日本全体が「在特会」のような現在、「嫌韓報道」に埋め尽くされた社会の危険性に気づいてほしい/安田浩一インタビュー
日韓関係の政治的な緊張にともない、地上波テレビや大手出版社から出版される週刊誌といったメジャーな媒体で、両国間の対立や差別を煽るような報道が増えている。
たとえば、8月27日放送『ゴゴスマ』(TBS系/CBCテレビ制作)では、中部大学総合工学研究所特任教授の武田邦彦氏が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」などと発言。さらには、「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しなけりゃいかんからね」とヘイトクライムの扇動まで行った。
状況は出版業界も同じだ。9月2日発売「週刊ポスト」(小学館)は<「嫌韓」よりも「減韓」、「断韓」を考える 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない!>と題された特集企画を掲載。そのなかでは韓国の研究機関が出した「韓国の成人の半分以上が憤怒調節に困難を感じており、10人に1人は治療が必要なほどの高危険群である」とのデータを紹介したうえで、これと日韓両国の軋轢を強引に結びつける主張を展開した。民族差別を煽るヘイトスピーチ以外のなにものでもない。
『ゴゴスマ』や「週刊ポスト」には批判が殺到し、このメディア状況を危惧する声も一部では起きているが、しかし、嫌韓の論調に賛同する声もネットでは大きい。支持者がいるためだろうか、報道のあり方は変わる兆候すら見えない。
このまま排外主義を良しとする空気がエスカレートしたとき、その結果として行き着く先はどこなのか、日本における排外主義の高まりを取材し続けてきたジャーナリストの安田浩一氏に話を聞いた。
【安田浩一】
1964年静岡生まれ。週刊誌記者を経てフリーのジャーナリストに。『ネットと愛国』(講談社)で第34回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書は『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社)、『ヘイトスピーチ』(文藝春秋)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)、『団地と移民』(KADOKAWA)など多数。近著は『愛国という名の亡国』(河出書房新社)。
躊躇いのない日常的な「差別」が始まっている
──『ゴゴスマ』や「週刊ポスト」の件など、ここ最近の報道を見ていると、完全にタガが外れてしまったように感じています。安田さんは現在の状況をどうご覧になっていますか?
安田浩一(以下、安田) 日本社会全体がかつての在特会(在日特権を許さない市民の会)と同じような方向に進んでいるような気がしてなりません。
今回の「週刊ポスト」のなかでは<「嫌韓」よりも「減韓」、「断韓」を考える>というフレーズが使われていましたけれど、「断韓」なんていうのはもともと、在特会をはじめとする差別集団がが街頭で訴えるときに使っていた文言です。それを「週刊ポスト」のようなメジャーな雑誌が使うようになってしまった。
ワッペンをつけたレイシストが街頭で叫ぶよりも、テレビや週刊誌のような主要なメディアが排外主義や対立を煽るような言葉を使うほうが、この社会には遥かに大きな影響力がある。実際、いまの日本社会はメディアが煽る空気感に引っ張られていっていますよね。
──メディアの報道による影響は、市井の人々の間で着実に出始めているように思います。
安田 そうですね。喫茶店や居酒屋でふいに飛び込んでくる文言に、背中の筋肉が強ばるような機会っていうのが、ものすごい増えたように感じます。
個人的な話ですが、少し前に、スーパー銭湯で湯船に浸かっていたら、30代前半ぐらいの若いグループが入ってきて、いきなり「朝鮮人がね」という話を大きな声でし始めました。すぐに話題が他に移ったので私と口論するには至りませんでしたが、やはり、心臓がドキッとした。一瞬、全身が強張りました。
飲み屋で話しているときに、少し声を落として周囲に聞こえないようにそういう話をすることっていうのは、昔からあったと思うんです。でも、この場合は違いますよね。周囲に人がいようといまいと、躊躇がなくなってしまっている。この言葉を使うことで誰かを傷つけているかもしれない、周囲で不愉快な思いをする人がいるかもしれない、というためらいがない。
そういった日本社会の空気をメディアがつくりだしてしまっている。メディアを通じて日がな、隣国に対する怨嗟や中傷にまみれた言葉が発信されればこうなるのも当然のことです。
そしてこれは、ある意味で、在特会など差別主義者たちの「実績」によるものかもしれない。ヘイトスピーチを繰り返すことで、とことん差別のハードルを下げてしまった。その結果がいまです。現在の在特会には力はないし、同会に限定すれば実態もないに等しいと思いますが、この社会状況なら彼らの存在意義なんてない。かつては路上で叫ばれていた言葉を、彼らより遥かに信用も影響力もある大手メディアが繰り返し用いているわけですから。恐ろしいことになってしまった。
差別の「正当性」を大声で触れ回るメディア
──新著『愛国という名の亡国』の「まえがき」にも<在特会などのわかりやすいレイシスト集団を必要としないほどに、日本社会の極右化が進んでいるようにも思えるのだ>という一文がありますが、悲しいことにその状況はここ数週間でますます進行したわけですよね。私は現在の日本が太平洋戦争の泥沼へと突き進んで行ったのと同じ道を歩んでいるように思えてならないんです。
安田 日中戦争時には「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」というスローガンありましたよね。「暴虐な中国を懲らしめよ」といった意味の四文字熟語ですけど、大日本帝国陸軍が掲げたこのスローガンをメディアがしきりに取り上げ、人々は「暴支膺懲」が書かれたのぼりを掲げながら街を練り歩いたわけです。
私はもちろんそれを実際の目で見たわけではないけれども、当時の熱狂っていまと似てるんじゃないかと思います。敵を設定し、その敵を潰すことを国民共通の目標にする。その盛り上がりの結果として行き着いたのが無謀な戦争でした。
いまは当時以上に平和への思いもあるだろうし、簡単に同じ道を辿るとまでは断言しないけれども、一定のリアリティをもって戦争というものを考えざるを得なくなってきたというのは事実です。
──当時と同様に、国民の憎悪に火をつけて扇動しているのは間違いなくメディアであり、彼らの責任は重いと思いますが、情報を発信している側にそういった想像力はないのでしょうか?
安田 「週刊ポスト」の件でいえば、「あの企画によって誰かが傷つくかもしれない」、もっと言えば、「その出版物によってこの社会のなにかを壊してしまうかもしれない」という想像力はなかったんだと思う。
そして、それは「週刊ポスト」編集部だけに限った話ではない。『ゴゴスマ』の製作スタッフもそうだったんじゃないか。あそこでなされた武田さんの発言に対して「なんでそんなに批判されるのだろうか?」と首を傾げているテレビ局関係者も少なくないと思います。自分たちが生み出すものがどんな未来につながっていくのか、といったことに対する鈍感さはメディアのなかで確実にあります。
──記事を読んだ人がどう思うかを想像することですよね。自戒も込めてそう思います。
安田 なんで私がこんな風に断言しているかというと、メディアの人と日常的に言葉を交わすなかで、「なにか問題ありますかね?」と問われることが少なくないからです。
メディア関係者と話していると彼らは「現在の日韓関係がこんなことになってしまったのは悲しいことだし、日本に住んでいる韓国の人、在日コリアンの人にとっても不幸なことだろう。でも、問題は向こうにもある」と、一見穏当な問いかけをしてくるわけですけど、そもそもこの考え方自体が間違っているわけですよ。
こういう考え方を話すことは、差別に「理由」があると大声で触れ回っているのと同じことだと思うんです。
差別に理由なんかあっちゃいけないんですよ。
差別に理由が存在するのだとしたら、黒人差別、アラブ人差別、はたまた海外諸国に私たちが行った際に起きるアジア人差別や日本人差別も認めざるを得なくなってくる。だから、理由をもうけることにとって差別を肯定することは、なにがなんでも認めちゃいけないんです。クズな人間に対して、そのクズっぷりを指摘することは構わないけれど、社会的な力関係を利用したうえで、相手が抗弁できない属性を叩くことは、絶対に許されない。
──関東大震災のときは、緊急事態に乗じて発生したデマによって「理由」が設定されて、おぞましい悲劇が起きました。
安田 1923年のちょうどいまごろ(注:取材は9月3日に行われた)には、あらゆる偏見とデマが渦巻くなか、「朝鮮人だから」という理由で多くの人が殺された。しかも、そのときの加害者はまともに裁かれていない。
それはいまでも続いています。なにか災害が起きるとツイッターなどを通じてデマが拡散されますし、しかも、最近は「どこどこで怪しい人を見た」とか、情報が具体的になってきている。いまはキーボードで文字を打っているだけですけど、その手に金属バットやゴルフクラブやナイフが握られる日が来ないとも限らない。
結局、日本社会は100年近く前の悲劇から真摯な反省をしていないわけですよ。
カウンターの動きはまだ、ちゃんとある
──社会状況がこうなったときにストッパーの役割を果たすべきは日本政府なのだと思いますが……。
安田 よく「草の根保守」とか「草の根右翼」みたいな言い方があるけど、肥料も水もなくて草が育つわけはなくてですね。肥料を与え、光を照らしているのは、間違いなく「国家」という存在ですよ。現在の状況に関して具体的に言えば、安倍政権です。メディアが自発的にキャンペーンとして始めただけ、とも思えない。
「外交の安倍」と言ってきたけれども、河野太郎外務大臣をはじめとした閣僚が分かりやすい画でもって国民の憎悪に火をつけ、その政府一丸となった大芝居に付き合わされることで、果たして日本社会は住みやすいものになったのかどうか。
──今後の社会のことを考えると、怖くて仕方がなくなります。
安田 ただ、冷静に状況を見ていけば、カウンターの動きはちゃんとあるんですよね。現実社会でも、あるいはネット上でも、一色には染まっていない。そこはまだ気持ちを絶望から救い出してくれる部分だと思います。
少なくとも、私の本を出してくれる出版社はあるし、こうして話を聞いてくれるメディアもある。そして私だけじゃなく、少なくない書き手が現状に対する怒りを発信している。今回の「週刊ポスト」の件もそうですし、少し前の「新潮45」(新潮社)のときも発言する人はいたわけで、そういったところで日本社会すべてが同じ色に染まることはギリギリのところで防げている。
──インターネットもそうですし、地方紙やラジオなどのメインストリームでないメディアでは、現状に対する違和感がきちんと語られています。
安田 そういう活動には大きな意味がありますよ。たとえば、私が本を出したり取材を通じて発言することによって、私自身はネトウヨからボロクソに叩かれるかもしれない。でもこうやって立ち位置を鮮明にすることが大事なんじゃないかと思っています。もしかしたら、少なくない人に「勇気」を与えることができるかもしれない。
──勇気ですか。
安田 いまの状況への違和感を口に出して言えない人、いまの状況を怖いなと思っている人に、「仲間はいるんですよ」ってことを伝えることができる。
もっと言えば、いまの日本で沈黙を強いられ、言葉を発する機会さえ奪われているマイノリティの人々に対してですね。
いま、在日コリアンの友人と話をすると、口を揃えて「しんどい」と言う。これまでは、ヘイトスピーチが飛び交うなかでも「在日特権なんかあるわけねえじゃん!」といった感じで、内心はしんどくとも、表面上は笑い飛ばすことができていた人もいた。もちろん、深く傷ついている人はいっぱいいましたよ。でも、いま余裕のある人などいない。多くの人が恐怖を感じている。なにかをしたわけではないのに、単なる「属性」だけでここまで息苦しさと絶望を与えてしまう社会って、いったいなんなのかなと思いますよね。
そんな彼ら彼女らを矢面に立たせてはいけないと思います。矢面に立つべきは、叩かれたってなんの痛みも感じない、なんならそういった反発を小銭に変えられるかもしれない、私のようなジャーナリスト、メディアの人間、あるいは評論家、そういった人たちがあらゆる機会に発言していけばいい。流れに抗っていけばいい。ときには炎上すればいい。そして、そういった気概をもっている人は、実は少なくない。
そういった人たちの活動が制限され、「結果的に韓国を利するようことを言うのは控えてくださいよ」「安倍政権の批判はやめてください」といった注文が来るようなメディア状況が当たり前になったらいよいよお終いですが、いまはまだギリギリそうなってはいない。
──まだ希望はあるわけですよね。
安田 希望をすべて失ったら、家で布団かぶって寝ているしかない。分かってくれる人もきっと増えてくれるんだろうなっていう確信をどこかで抱えながら仕事を進めたいと思っているし、発言したいと思っています。
そういった美しい話がどこまであるのか疑問に思ってしまうこともあるけれども、諦めずに発言し続けることで同じ思いを抱えてくれる人が増えてくれるかもしれないという志は捨てずにいたいのです。
(取材、構成、撮影:編集部)
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