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萱野俊人と巡る超・人間学【第3回】

萱野俊人と巡る【超・人間学】「人間は“教育”によって生かされている」(前編)

(写真/永峰拓也)

――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

今月のゲスト
安藤寿康 

萱野稔人の対談企画、今回のゲストは行動遺伝学、進化教育学、教育心理学、生物学的視点から教育についての研究を行っている安藤寿康氏。「人間にとって教育とは。なぜ人間は教育をするのか」を問う。

■“教育”は人間の本質

萱野 安藤先生の著書は以前から読ませていただいており、教育学の分野で非常にオリジナリティのある仕事をされていると感じていました。特に私が面白いと思ったのは「教育とは何か」という大きな問いを“人間”の根幹に関わる問いとして考察されているところです。

 一般に教育学といえば、教育という枠組みそのものを前提として、いかに子どもの学力向上や人格形成を果たしていくのかを探求する学問として位置づけられています。しかし安藤先生は「そもそも教育とは何なのか」「なぜ人間は教育という営みをなすのか」といった問いから議論を展開されています。そのアプローチがとても新鮮だと感じました。

安藤 教育学関係者の教育に関するオーソドックスな議論を聞きながら、いつもモヤモヤしていたんですよ。教育がなんのためにあるのかという最初の出発点が見えていないところで議論してもなぁ……という感じで。それと私自身、いちおう大学教授になっていますが、勉強に関しては落ちこぼれという感覚があって、学校教育のあり方にずっと疑問を抱いていたんです。一生懸命に勉強してもあまり学力が向上しなくて、「なんのためにこんな勉強をしなきゃいけないのか」と思いつつ、国が国民にやれといっているんだから、きっとよいことを教わっているに違いないと自分にむりやり言い聞かせながら……。よっぽど頭のいい人を除いて、受験に取り組んだことのある人なら誰でも同じような思いを抱いたことがあると思います。

 改めて振り返ってみても、自分が受けてきた学校教育がすべての面において本当に役に立ってきたのか。国民全員が教育というものに当たり前に投入されていますが、どこかにおかしいところがあるんじゃないかという思いがあったんです。

萱野 みずからの体験の中に教育そのものの存在を疑う契機があったんですね。なぜそれが存在するのか、という問いはきわめて哲学的です。この場合ですと、なぜ教育などというものが存在するのか、という問いですね。

安藤 萱野先生はいくつかの著書で「国家はなぜ存在するのか」という哲学的な議論をされていますが、とても似ているものを感じています。

 国家の存在は誰にとっても当たり前のもので否定することはできません。教育の存在も人間社会にとって自明のものです。国や文化によって制度や内容の違いはあっても、教育そのものはどんなところにも当たり前に存在していて、例えば発展途上国の支援にしても、教育支援はプライオリティのトップに必ず入りますよね。現在と同じような形だったわけではないですが、歴史的に国家も教育もずっと人間と共に存在してきた。その発生には、何か人間特有の機能が関わっているはずなんです。

萱野 著書『なぜヒトは学ぶのか』(講談社現代新書)で安藤先生は、人間を「教育によって生きる動物である」と規定しています。他者に何かを教える、他者から何かを学ぶ、という教育の営みが、人間という存在にとって普遍的でプリミティブ(根源的)な要素をなしている、ということですね。これは大変示唆に富む指摘です。

安藤 そこに思い至ったのは、あるとき自分に「ダーウィンという神が降りてきた」という感覚なんです(笑)。若い頃はなんでもかんでも「適応」や「遺伝子を残すこと」で説明することに対して懐疑的なところもあったのですが、人間を生物学的な視点でとらえてみると、やはり有無を言わさぬパワフルな説明力に圧倒されたんです。

 ヒトは生きるための知識を他者と交換しながら生きる動物として生まれついている。それをもっとも合理的に説明できるのは進化論だと気づいたんです。私にとってコペルニクス的な転換でした。もっともこれは私の発見というわけではなく、近年の進化生物学、進化心理学、脳神経科学などの研究、知見が示唆していることです。ヒトという動物は他の動物と違って知識を自分だけのものにするのではなく、他者に伝えたがるように生物学的にできている。これはヒトの本質のひとつなんですね。脳科学的にいえば、人間の脳は他者から知識を教わり、教わって学ぶ“教育脳”とでもいうべき、ヒト特有の発達を進化の過程で獲得したと考えられます。それが人類の発展の根本にあるはずです。

萱野 教える・学ぶという行為は人間の脳に組み込まれた行動形態であるということですね。例えば私たちは飲み会で酔っ払っていても、相手が何か間違ってものごとを認識していると感じたら、それを是正しようとしますよね。これも広い意味でとらえれば、正しい知識を教え、共有しようとする教育的な行動といえる。学校教育のような制度化された教育とはまったく異なる形態ですが。

安藤 そうした行動が教育の原点だと思います。

萱野 暇つぶしのネットサーフィンにおいてすら、私たちは知識や情報を集めようとしますよね。

安藤 ネットサーフィンで知識や情報を集めようとする人がいる一方、ウェブ上に何らかの文脈を作って人に何らかの知識や情報を伝えたいという人がいるということで、これも知識の分配という教育的な行動と言えるでしょう。

■“知識”にがんじがらめにされた人間の世界

(写真/永峰拓也)

萱野 教えよう、教えてもらって学ぼう、という両者が合わさって教育という場が成り立っている。そう考えると、教育は人間社会のありとあらゆる場面で営まれていると言えますね。

安藤 人間に一番近い生物とされるチンパンジーでも、教育といえる行動は一切していません。これは教育がヒト特有の行動形態であるということでもあります。

 この教育という行動の特徴として重要なポイントは、無償で行われているということなんですね。他者に何かを教えること、教えてもらって何かを学ぶこと、それ自体が報酬や対価がなくてもうれしかったり、楽しかったりする本能的なものなんです。

萱野 大学で教員をしている身からすると、とても説得力のある話です。学生が何か質問にきたら、やはり仕事を抜きにしてうれしいですから。

安藤 そこで、授業料を払ってもらっているから仕方なく教える、というふうには絶対にならないですよね(笑)。

萱野 質問に対して丁寧に応じても給料は変わらないわけで、作業効率だけを考えたら学生が質問にこないほうがいいということになりますが、それでも学生の質問にはうれしく対応してしまうものですよね。こうした無償性という点も他の生物には見られない点なのでしょうか?

安藤 “学習”だけなら実は、単細胞のゾウリムシでもしています。ゾウリムシは過去に自分が適応した環境を記憶し、変化が生じると、その環境を再現するために行動するんですね。あらゆる生物は学習を行うことで生存していると言えます。

 そんな中で、人間は知識を学習して自分の生存のためだけに使うのではなく、教育を通じて知識を他者と共有しながら使います。このような知識の使い方は人間だけの特異性といえるでしょう。聖書に「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉がありますが、人間が膨大な知識によって生活を支えられていることを思えば、「人は知識によって生かされている」と言えるわけです。

 社会的な動物は進化の過程で“互恵的利他性”と呼ばれる特性を獲得してきました。これは利己的な遺伝子の乗り物である動物が、遺伝子を生き残らせるために一見利他的な行動を取る性質のことですが、この互恵的利他性が知識に関して発揮されたのが教育と言えるでしょう。

萱野 なぜ人間にはそうした行動形態が備わったのでしょうか? やはりそれは、人間が生きる世界が知識によって組み立てられているからなのでしょうか?

安藤 そう考えたときに一番納得できるんですね。私たちの生きている世界のありとあらゆるところに知識は入り込んでいますから。ある意味、私たちの生きる世界は知識によってがんじがらめにされているともいえるぐらいです。しかし、例えば20万年前に狩猟採集をしていた人類の知識は、現代のそれとはまったく異なるでしょう。

 では、彼らに教育はあったのかという疑問が当然出てきます。そこで2011年に今も狩猟採集民の生活を営んでいるカメルーンの先住民、ピグミーの一族であるバカ族の村までフィールド観察に行ってきました。これまで文化人類学者たちの報告では、ピグミーには「教育がない」ことが文化伝達の特徴とされていたんです。しかし、実際に現地に行って調査してみると、確かに制度化、慣習化、テキスト化された教育はありませんでしたが、何らかの知識を教え合う教育行動がさまざまな形で見つかったんです。

萱野 現代の文明社会とは異なる原初的な社会に生きる人たちもまた、食べものや動植物、地形、天候など、自分たちの生存圏に関わることについては膨大な知識を持っていますよね。現代の文明社会であろうが、原初的な社会であろうが、人間はつねに膨大な知識のもとで生きています。そうした膨大な知識があることによって人類は絶滅せずに生存してこられたともいえる。だからこそ、われわれは知識を教え合い、教育をせずにはいられないような存在へと進化してきたのでしょう。

■知識と価値観を共有する教育制度の意義

安藤 「生物が生きるための“三欲”」と言ったとき、“食欲”と“性欲”はすぐ出てきます。続く3つ目として“睡眠欲”や“排泄欲”が挙げられることが多いのですが、私は“知識欲”あるいは“学習欲”だと考えています。睡眠や排泄は欲というよりも生理的な機能で行うものでしょう。

 一方、食欲と性欲は、生存や繁殖のために必要不可欠なもので、それが枯渇しているから、外部から取り込もうとしたり、自分のものにしようとしたりします。知識もまた、そうした欲に近い形で吸収しているんですね。

萱野 その考えは斬新ですね。睡眠欲や排泄欲より知識欲のほうを重視すべきなのは、それが自分とは異なるものを自分の中に取り入れようとする欲求だからですね。その点で、知識欲は食欲や性欲と同列に置かれるべき欲求だといえます。それに知識欲は人間の生存にかなり近いところで発揮されている。

 例えば大学で教えている学生の中には、アイドルオタクの学生がときどきいるんですが、彼女たちはアイドルの追っかけをするために、どういう移動手段と宿泊方法がもっとも安くなるのかを徹底的にリサーチしている。ある意味で、知識欲そのものがとても実践的なんですよね。

安藤 興味のない人からすると「くだらない」と思うようなことでも、好奇心を持つことにのめり込むことは生物学的快感があるし、それだけでなく実際に多くのことを学んでいるでしょう。それは電車の乗り継ぎとかだけではなく、ひょっとしたら自分の好きなアイドルの活躍を見ることで、自らの生き方を振り返ってみるとか、自ずと何かしら大きなことも学んでいるんですよね。

萱野 どんなことであれ、ヒトは個々の知識を学ぶことで価値観や世界観を形作っていきます。それはもはや人間にとっての生存の条件と言っていいかもしれません。

安藤 その通りですね。実用的な意味でも哲学的な意味でも、何を学んでいるのかということが社会での生き方、どのように生きているかということを規定してしまいます。それが面白いところでもあり、怖いところでもあります。

萱野 人生は言ってみれば選択の連続です。今日の昼食に何を食べるかというレベルから進学、就職、結婚まで、ありとあらゆる行為が決定の結果として成り立っています。そしてその「決定する」という営為の前提となるのは、これまでに学んできた知識であり、そこから得た価値観や世界観です。それを考えたら、学んだことが人生を決めるといっても過言ではありませんね。

安藤 知識が将来の選択肢、可能性を決めるのですから、もはや人生そのものともいえるでしょう。

萱野 教育は個人の生き方だけでなく、共同体のあり方をも規定していますね。

安藤 教育によって共同体を維持しようとする行動も生来的に人間に組み込まれているものでしょう。知識を継承することによって、知識の共有で成り立っている共同体を維持、もしくは拡大していくことは、自分自身の生存と深く関わりがあります。

 ヒトを取り巻く世界は常に何かしらの問題を抱えていて、それを解決するために知識を共有する必要がありました。そして、その知識を次世代に伝えて育てていく。教育とは突き詰めていえば一緒に問題解決をする仲間を作るということです。学校という教育制度の本来の機能と目的はそこにあるはずで、それが国家のレベルで教育制度を作っていることの理由ではないでしょうか。国家を動かしている根本にあるものは、教育と同じものではないかという気がしています。

 また、教育には社会的ルールを教えて自己抑制を学ばせるという側面がありますが、国家が暴力によって、国民をコントロールしていることとも共通しています。これも萱野先生の著作を読んで感じたことですが。

萱野 集団の中で価値観や規律を共有するということは、別の側面からみたら、他人を自分の思う通りに行動させたいという欲望の表れでもありますからね。それを法にもとづく強制力によって行うのが国家だとすれば、知識の共有によって行うのが教育だとも言えます。

 つまり教育には2つの側面があるわけですね。一緒に問題解決に取り組む仲間を作るという側面と、相手を自分の望む通りに行動させようとするという側面です。国家が教育に強い関心をもつのも、この2つの側面が人間の生存に深く関わっているからです。国家だけではありません。一般の人々も、誰もが教育評論家になっているといっていいぐらい教育には一家言持っています。それだけ教育は人間と集団の本質に組み込まれているということでしょう。(月刊サイゾー8月号より)

(次号に続く)

構成/橋富政彦

安藤寿康

1958年生まれ。慶應義塾大学文学部教授。博士(教育学)。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は教育心理学、行動遺伝学、進化教育学。双生児法によって遺伝と環境が人間に及ぼす影響の調査・研究を続けている。主な著書に『なぜヒトは学ぶのか』(講談社現代新書)、『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SBクリエイティブ)、『遺伝と環境の心理学』(培風館)、など。

萱野稔人

1970年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。主な著書に『国家とは何か』(以文社)、『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書)、『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』(小社刊行)など。

最終更新:2019/08/24 10:00
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