萱野俊人と巡る【超・人間学】ーー「化石人類から見える人間の根源」(後編)
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――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。(月刊サイゾー7月号より)
今月のゲスト
更科 功[分子古生物学者]
萱野稔人の新連載企画。前号に引き続き、分子古生物学者の更科功氏をゲストに招いて“人類の進化”を論じ合う。更科氏は“一夫一婦制”が人類を特有の方向に進化させたという。その真意は――!?
■進化を促進させた一夫一婦制
萱野 前回の最後で更科さんはこうおっしゃっていました。「(人類において)オス同士の争いが減っていったことと直立二足歩行の進化が同時に起きたことを説明することができる仮説がひとつだけあって、それが“一夫一婦制”です」と。
チンパンジーの場合、群れのなかでオスもメスも複数の相手と交尾をしますよね。ですので、生まれてきた子の父親は誰かわからず、子は群れのなかで育っていく。これに対して、人類はオスとメスが一対一のつがいとなって子を生み、そのつがいが子を育てる“一夫一婦制”のなかで進化してきた、ということですか?
更科 もちろん、チンパンジーのような多夫多妻から人類がすぐに完全な一夫一婦制になったわけではありません。最初は集団の中に一夫一婦的なつがいが少しいるだけでいいんです。例えば、一匹のオスが複数のメスと交尾をして何人もの子を作っていたとしても、あるとき「これは自分の子だ」とわかる子がいて、自分の子に優先的に食べ物を持ってくる。そういう行動をとるオスが集団内に数頭できるだけでかまわないんです。
萱野 オスが浮気をしなくなったということではなくて、どの子が自分の子かわかるようになることが重要なんですね。そもそも“浮気”は一夫一婦制が確立してから生まれた概念なので、順序が逆ですし。
更科 チンパンジーのような多夫多妻の場合は、発情している数少ないメスに多くのオスが集中します。それでオス同士の争いが起きるわけです。そして、メスもオスを基本的には誰でも受け入れる。ですから、子どもの父親はわかりません。しかし、完全ではないとしても一夫一婦的なつがいができることによって、全体としてはオス同士の争いは減りますよね。その形質が自分の子に受け継がれていくことで一夫一婦制が広がって、オス同士の争いはさらに減っていきます。その結果として、犬歯の縮小を説明することができるのです。
萱野 集団のなかで特定のオスが特定のメスと安定的な関係を維持するようになり、それが集団内で互いに承認されるようになって、オス同士の争いが減っていったということですね。
更科 他の霊長類でも一夫一婦制に近い生態をとっている種もありますが、大抵はオスとメスが孤立して二匹だけで生きている。集団内でオスとメスがペアを作っているのは人類だけなんです。それは今おっしゃったように、その関係性が集団全体で承認されているといってもいいでしょう。
萱野 集団内で特定のオスとメスの関係が承認されていけば、オス同士のメスをめぐる争いも減っていく。その結果、犬歯の縮小が進んでいったと。では、そのことは直立二足歩行と、どう関係するのでしょうか?
更科 直立二足歩行は先ほども言ったように自分の生存には不利な進化です。ですから、チンパンジーのように誰が自分の子かわからない状態だったら、直立二足歩行は進化しません。他人かもしれない子に食べ物を運ぶよりは、自分で食べてしまったほうが得なわけですから。自分にとって損な行動が進化する可能性があるのはひとつだけ。それは自分の子が他の子より生き残る可能性が高まる場合です。そのためには自分の子が判別できなくてはいけない。一夫一婦制であれば自分の子がわかりますから、その子のために食べ物を運んでくる意味があります。そうして育った子は、直立二足歩行で自分の子に食べ物を運ぶという形質を受け継ぎます。一夫一婦制が生まれることによって、直立二足歩行と犬歯の縮小というふたつの進化がいっぺんに説明できるのです。
萱野 なるほど。となると、一夫一婦制が人類の進化に果たした役割はきわめて大きいですね。
更科 そうです。現代に生きる私たちが特定の相手に愛情を感じてパートナーにしようとすることが、一夫一婦制が進化してきた証拠ではないでしょうか。チンパンジーだったら、同じような年齢と健康状態であれば相手を選びません。しかし、人間は違う。それは人類が一夫一婦制的な形質を受け継いできたからだと思います。
■人類の進化と暴力の減少
萱野 とても興味深いのは、人類が進化してきた初期の段階ですでに、現在の人間社会における結婚や家族の原型があらわれているということです。こうした人間関係のあり方は、進化論的にいっても、人類の根源的な社会形態だと考えてもいいのかもしれません。
更科 チンパンジーも食べ物を分け合うことはありますが、それは仲間に要求されて仕方なく分け前を与えるだけです。人類のようなパターンは他の霊長類には見られない行動です。
萱野 例えば同じ類人猿でもボノボはとても平和な種として知られていますが、なぜ人類のような進化が生まれなかったのでしょう。
更科 ボノボもチンパンジー同様に多夫多妻の群れを作りますが、争いが起こりそうになると性器をこすり合わせるなどして緊張を解きます。争いが起きることがあっても、殺し合いになるようなことはまだ観察されていないようですし、チンパンジーやゴリラと比べてかなり平和な種であることは間違いないでしょう。しかし、それでも大きな犬歯が発達しています。進化の過程において使わないものにエネルギーを費やすのは不利なので、牙は使われなければ人類のように縮小するはずです。ボノボでは争いが起こること自体がまれかもしれませんが、それでも牙は使う争いのなかで進化をしてきたということでしょう。逆にいえば、人類はそんなボノボよりも平和な生き物ということです。
萱野 同じ類人猿でも、種によってオス同士の争いの激しさが違う。その違いはどこからくるんでしょうか?
更科 考えられるうちのひとつは、オスと交尾ができる発情期のメスの比率です。チンパンジーはメスが発情していないと交尾ができませんが、ボノボの場合は疑似発情期というものがあって、メスは発情期でなくても交尾をすることができるのです。チンパンジーでは群れの5~10頭のオスに対して発情しているメスの割合は1頭ですが、ボノボの場合は2~3頭のオスにメス1頭という割合です。ゴリラはその中間ぐらい。私たちヒトには発情期はありませんが、初期人類でも発情期がなくなっていた可能性があります。そうであれば、初期人類もヒトと同じように男女比は1対1に近くなっていたのではないでしょうか。このオスに対して交尾できるメスの比率は、チンパンジー、ゴリラ、ボノボ、人類と、オス同士の争いが激しい種の順と相関しているのです。
萱野 結局、オスは自分の子を少しでも多く残すために、生殖機会をめぐって他のオスと争う。人類における一夫一婦制はオス同士の争いを減少させると同時に、オスに自分の子を残す安定的な方法を提供したのかもしれませんね。
更科 基本的に自然選択というものは、「多くの子を生んだほうが残る」ことが原則です。走るのが速い、力が強い、知能が高いといった特性も進化に有利に思われがちですが、究極的には“子の数”だけが問題なんです。走る速さや知能の高さは、子の数には直結しませんよね。しかし、直立二足歩行で子に食べ物を運ぶという行動は子の生存率を高めるわけですから、子の数と直結します。これは自然選択ではものすごく強く働くわけです。
萱野 相乗的な効果になりますよね。最初は一夫一婦制は群れの一部で成立していただけかもしれないけれど、そちらのほうが子を多く残せるのであれば、同じように一夫一婦制のもとで自分の子に食べ物を運ぶ個体がどんどん増えていく。と同時に、オス同士も争いを減らして集団の結束を強めていくことになりますから、それも生存には有利に働く。
更科 それぞれが自分の利益と欲望のために争うよりも、長期的に見れば争いが少なくて平和なほうが理にかなっているわけです。もちろん、進化そのものはそういった“理想”を考慮するはずもなく勝手に進んでいくものですが。人類の場合でも争いが減って集団が大きくなることで、結果的に他の種からの防衛力も高まることにつながり、それも進化を促進させたのでしょう。もちろん、人類同士で争いがなくなったわけではなく、ネアンデルタール人でもホモ・サピエンスでも殺し合いをした痕跡は見つかっています。ただ、化石として出てくる証拠を比べると、かなり少ない。死亡率を推定するのは難しいのですが、約700万年の人類の歴史を見てみると、同種間の争いは減少傾向にあったと思われます。ただ、グラダナ大学のホセ・マリア・ゴメス氏の論文「人類における致死的暴力の系統的起源」で紹介されていますが、数千年前からそれが再び増えてきたという研究もあるんですね。
■人類の本性は暴力的なのか!?
萱野 非常に興味深い研究です。人類のあいだで農耕が始まった時期が約1万年前ですね。もしこの研究の内容が妥当なものだとすれば、人類は進化の過程で平和な関係を築いてきたにもかかわらず、農耕社会に入ることによって暴力性を高めたと考えることも可能です。日本の場合でも、縄文時代の人間の化石からは他の人間によって殺された痕跡はあまり出てこないが、農耕が始まった弥生時代以降の化石からは一気にその痕跡が増える、という研究もあります。果たして人間の暴力性は、農耕以降の社会制度によって高められたのかどうか。かつてマルクス主義は、狩猟採集社会から農耕社会になったことで支配関係が生まれ、国家の原型が形成され、それによって戦争もなされるようになったと考えました。他方で、マルクス以前の哲学者では、本性として人間は暴力的な傾向を宿していると考える人も少なくありません。
更科 例えばホッブズの社会契約説では、無政府状態では人間は常に争いを起こすと言われていますよね。実際、現代でも無政府状態に陥ると略奪が起きたりします。化石からは人類の本性であるとか支配関係というものは当然見えてきませんが、オス同士の争いが減ってきたことは間違いないと考えられます。それと1万年前以降の人類同士の暴力が増えてきたということが私のなかではうまくつながらないんです。ただ、殺し合いをするということは、それによって得られるものがあるということですよね。つまり、何か奪えるものがなければ、大規模な殺し合いは起きない。
萱野 おっしゃる通りだと思います。その日の獲物ぐらいしか奪うものがなければ、他の集団と戦争をするメリットはありません。農耕以前は人間の数も少ないし、他の集団と接触することも少なかったでしょうから、集団同士の戦争のような争いはほとんど起こらなかったのではないでしょうか。それが農耕社会になると、ストックされた収穫物や家畜だけでなく、土地さえもが奪い合いの対象となる。また、農耕によって人口も増えましたから、食料を生産したり調達したりする土地も手狭になり、他の集団と接触する機会も増え、近接の集団とテリトリーをめぐる争いが起こるようになったのかもしれません。マルクス主義の学説をどこまで認めるかという問題とは別に、人類社会のあり方が進化することによって、暴力が大規模に組織化されるようになったという側面は確かにあると思います。人間は農耕社会が始まってから、問題解決の手段として暴力を用いることがもっとも早くて有効だということを、社会制度を作りながら学んでいったのかもしれません。
更科 確かに暴力がもっとも手っ取り早いかもしれない。
萱野 チンパンジーのオスがメスをめぐって殺し合うのも暴力ですし、人間が政治の世界で従わないものを処罰したり戦争をしたりするのも暴力です。人類は進化の過程でメスをめぐって殺し合うような暴力を集団内で減らすことには成功した。それは、そのほうが子を残すには有利だったから。しかし、農耕社会以降の大規模な定住社会になると、集団のなかで従わない人間を処罰したり他の集団と戦争をしたりするために組織的に暴力を用いるほうが、自分たちの子を残すには有利になった。そんなふうに暴力をめぐるベクトルが、約1万年前に大きく変化したのかもしれませんね。
更科 人類が進化の過程で抑えてきたのは主にメスをめぐる争いなので、現代の戦争のような暴力とはまた違いますよね。チンパンジーはメスの取り合いで日常的に殺し合いをしていますが、人間はさすがにそんなことはありません。そのレベルでは、人類はチンパンジーと比べて平和な種だともいえます。
■人間の新たな傾向性の分岐点
萱野 更科先生は、文明が人類の暴力性を高めたと考えますか?
更科 新たな暴力性を付け加えたという感じではないでしょうか。人間の殺人はチンパンジーの殺し合いと比べて圧倒的に少ない。チンパンジーのオスの3~5割は、それで死にますから。人間の戦争のような暴力は、身近な人ではなく、基本的に遠くの人を殺すものですよね。古代の人類は、そもそも自分たちの集団の外にいる遠くの人を、ほとんど認識することはできませんでした。そういう意味でも、戦争のような暴力は、人類にとっては新しい行動なのかなと思います。
萱野 有史以降の人間社会を観察すると、そこには一貫して「仲間は殺すな」「敵は殺せ」というふたつの傾向性があることがわかります。仲間や身内を守るために結束して敵と戦う。仲間や身内のあいだでは暴力を排除する傾向性を発揮しているのですが、自分たちに対立する敵に対しては容赦なく暴力を行使する傾向性があるのです。さらには、集団のメンバーであっても、その連帯を破壊する裏切り者や犯罪者は徹底的に排除してきた。こうした、仲間や身内のなかで団結して平和と生存を維持するという意識は、ひょっとしたら数百万年前の人類から私たちに受け継がれてきたものかもしれません。
更科 それが文明という新しい環境にさらされることによって人類に新たな暴力性を付け加えたと考えると、うかつに「古代の人類は本質的に平和だったのに、現代は……」みたいに二極対立で考えるのはあまり意味がないですね。
萱野 現在の人間が生きている環境は、古代の人類が直面していなかったものですからね。
更科 文明が始まってから人類が別の生物に進化したわけではないですが、環境が変化したことによって性質も変わってきたと。
萱野 人間の経済活動の規模が大きくなるにつれて、人口も増え、地球が狭くなったということもあるでしょうね。かつてチンパンジーと人類の共通祖先が暮らしていた森林が狭くなったのと同じように。
更科 視点を変えてみれば、共通祖先からチンパンジーと人類が分岐したのと同じようなことが、今まさに起きているのかもしれません。
萱野 森林から追い出された種が人類に進化していったように、地球が狭くなることによって新しい進化が人類に起きるかもしれないと。今がその淘汰と進化の分かれ目になっている可能性があるというのは、人類史を俯瞰することで初めて得られる視点ですね。
更科 功
1961年生まれ。東京大学総合研究博物館研究事業協力者、明治大学・立教大学兼任講師。東京大学大学院理学系研究博士課程修了。専門は分子古生物学。『化石の分子生物学――生命進化の謎を解く』(講談社現代新書)で第29回講談社科学出版賞を受賞。その他の著書に『絶滅の人類史――なぜ「私たち」が生き延びたのか』(NHK出版新書)、『進化論はいかに進化したか』(新潮選書)など。
萱野稔人
1970年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。主な著書に『国家とは何か』(以文社)、『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書)、『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』(小社刊行)など。
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