【ジャニー喜多川氏追悼特集1】美少年への執着と審美眼「ボクは好きな子しか選ばない……」
#ジャニーズ #元木昌彦 #ジャニー喜多川
日本芸能界において数々の功績を残したジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川氏が急逝した。ここでは特別寄稿として、雑誌ジャーナリズムにおける、ジャニーズ事務所と対峙した“縁のある識者”らに、彼が残した芸能界への功績と寄稿者によるジャニーズ関連記事への思いを振り返ってもらいたい。第一回目は、「週刊現代」「フライデー」などの週刊誌編集長を歴任した元木昌彦氏。
◇ ◇ ◇
「ボクは好きな子しか選ばない」
生前、ジャニー喜多川氏が繰り返しいっていた言葉だ。
資産1,000億円ともいわれるジャニーズ王国を、一代で築き上げたジャニー喜多川氏が亡くなった。享年87。
6月18日に自宅で倒れ、緊急搬送された。ジャニーズ事務所のタレントたちの祈りも虚しく、7月9日の午後、永眠した。
翌日のスポーツ紙は全紙、一面全部を使って彼の死を悼んだ。「キムタク『ゆっくり休んでください』ジャニーさん天国へ」(ニッカンスポーツ)「SMAP 嵐…帝国築いたアイドルの父 ジャニー喜多川さん逝く」(スポーツニッポン)など、最大の賛辞を贈った。
朝日新聞も一面で取り上げた。
「1931年、米ロサンゼルスで生まれた。10代で、公演で現地を訪れた美空ひばりらの通訳をし、ショービジネスの基礎を学んだ。その後、日本で、コーチをしていた少年野球チーム『ジャニーズ』からメンバーをスカウトし、62年、同名グループのマネジメントのためジャニーズ事務所を設立した。
70~80年代にかけてフォーリーブスや郷ひろみ、近藤真彦、田原俊彦、少年隊、光GENJIら時代を代表する人気タレントが次々と輩出。日本の歌謡界で歌って踊れる『男性アイドル』というジャンルを定着させた。その後、世に送り出したSMAP、TOKIO、V6、嵐などがヒット曲を連発。マルチタレントとして幅広い世代から支持を集めることに成功した」(7月10日付)
7月11付の「天声人語」でも、
「これほど名を知られていながら、これほど素顔を知られぬまま旅立った人も珍しいのではないか。訃報(ふほう)の写真のジャニー喜多川さんは、帽子をかぶり、サングラスをかけている。表情も年齢も読みとりがたい▼素顔や肉声をさらさない主義で知られた。同僚者によると、取材には毎回、撮影不可という条件が付された。『劇場の客席で観衆の反応をつかむため、顔を公開したくない』などの理由が挙げられた▼『ユー、やっちゃいなよ』。そんな言い回しで知られたが、取材には折り目正しい日本語をゆっくり話し、敬語も丁寧だった。ジャニーズらしさとは何かと尋ねると、『品の良さ』と答えたという」
すぐにでも国民栄誉賞を与えろといわんばかりの持ち上げ方である。だが、明るければ明るいほど、闇は濃くなる。
朝日新聞が第二社会面で書いた「評伝」の末尾に、こう書いている。
「1999年には所属タレントへのセクハラを『週刊文春』で報じられた。文春側を名誉毀損(きそん)で訴えた裁判では、損害賠償として計120万円の支払いを命じる判決が確定したが、セクハラについての記事の重要部分は真実と認定された」
私も、ジャニー喜多川氏が果たした戦後芸能史における功績を評価するのにやぶさかではない。
ジャニーズ取材歴50年という小菅宏氏が書いた『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店)は、数少ないジャニー氏の肉声を知ることができる、今となっては貴重な本である。
それによれば、「ジャニーズ」をデビューさせたジャニー喜多川氏は、既存の芸能界から「芸能キャリアがまったくない高校生に何ができる」「男が踊りながら歌ってどこが面白い」と揶揄されたという。
しかし当時31歳のジャニー喜多川氏は、それを聞いてほくそ笑んだという。
「この国の芸能界はアメリカのショービジネスより三十年遅れている。その『隙間』にビッグチャンスが眠っているのに誰も気づいていない」
隙間とは、小菅氏によれば、旧弊な職能にこだわる日本の芸能界が「猿芝居」と見放していた、歌唱と踊り(ダンス)を同時に取り込む「少年グループ」の分野を意味したという。
「日本芸能界の『芸域の隙間』を狙ったジャニーは、前記の『猿芝居云々』の侮蔑を飲み込み、むしろ、屈辱を腹に据えて野球少年の4人組ジャニーズを創作する。
結果として、硬直化した日本芸能界の慣例に縛られる元凶の、言わば職能領域の『破壊』になったと見ることができる」(小菅氏)
たしかにアメリカでは、男性コーラスグループが数多いて、踊りや自らが演奏して、客やテレビの視聴者を楽しませていた。
だが日本では、グループといえば女性で、ダークダックスに見られるように、男性グループは直立不動して歌うだけだった。
「ジャニーズ」を皮切りに「フォーリーブス」、郷ひろみをアイドルスターにし、テレビ『3年B組金八先生』に出演して人気が出た、田原俊彦、近藤真彦、野村義男を「たのきんトリオ」として売り出し、空前のブームを作りあげた。それからも陸続とアイドルグループを輩出していったのである。
経営や広報は姉のメリー喜多川氏に任せ、次々に人気の出る可愛い子を発掘する才能は、誰にも真似のできないジャニー喜多川氏の「異能」とでもいうしかない天才的なものであった。
他のプロダクションも男性アイドルグループをデビューさせたが、ジャニーに太刀打ちできず次々に消えていった。
だが、ジャニー喜多川氏が一世を風靡する男の子のアイドルを発掘できるのは、彼の性的嗜好によるものではないかという噂が、流れ始めたのである。
最初にそれを報じたのは『女性自身』(1967年9月25日号)だった。デビュー直前の「ジャニーズ」にダンスのレッスンなどを学ばせるために通わせていた「新芸能学院」から、金銭不払いで訴えられたのだ。
その裁判の公判で、学院側は「ジャニー喜多川のホモセクハラ行為」があったと発言したのである。
公判で、「ジャニーズ」のあおい輝彦と飯野おさみは否定したが、中谷良と真家ひろみは、原告側の弁護士の「同性愛的なワイセツ行為があったか」という問いかけに、「覚えていません」と答えたのだ。
このグループ内の証言の食い違いからか、その年の12月に「ジャニーズ」は突然解散させられてしまう。
その後、中谷は1989年に、その事実を肯定する告発本を出すのだが。
「たのきんトリオ」がブームになったのは1979年からである。私は、その頃、週刊現代編集部にいた。
少し前までのSMAP人気もすごかったが、「たのきん」の人気のほうが上だったのではないか。彼らはジャニー喜多川氏の最高傑作ではないかと思っているのだが。
男性アイドルにまったく興味がなかった私でも、3人の顔や歌は知っていた。だが、もっと興味があったのは、次々に女性に受ける美少年たちを発掘するジャニー喜多川という人物のほうだった。
私は当時、30代半ばで結婚したばかりだった。次の人事では副編集長になるといわれていた。なっていれば同期の中では早い方だっただろう。
1981年の4月初めに、ジャニー喜多川氏の疑惑についてやろうという企画を出した。
企画は通ったが、ちょうど編集長の交代の時だった。次の編集長に企画は申し送りされ、後に事件ジャーナリストとして知られる朝倉喬司記者に取材を頼んだ。
勢いはあったが、プロダクションとしてはまだ中堅だった。後に、朝倉氏から聞いたが、メリー喜多川氏は、最初はそれほど警戒せずに話してくれたという。
だが、次に行った時は、部屋を閉め、凄い形相で、朝倉を睨みつけたそうだ。朝倉記者の言葉だが、メリー氏は、「書くんだったら、ここで私は洋服を脱いで、強姦されたと大声で騒ぐわよ」といったという。
さすが数々の修羅場を潜り抜けてきた朝倉記者も、「やっぱりビビったよ」と苦笑いしていた。
この記事は4月30日号の週刊現代に掲載された。タイトルは「アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」という、温いものだった。
私としては面白くできたと思ったが、編集長は新聞広告にも中づり広告にも載せなかった。問題になるのを恐れたのかもしれないが。
記事は概ねこんなものだった。たのきんトリオの売れっ子ぶりを書き出しに、美少年タレントの育成にかけては天才的な事務所だとし、ジャニー喜多川氏にはスターを見つける「独特の感覚」があると続ける。
姉のメリー氏が16〜17年前に四谷でスナックをやっていたという芸能記者のコメントなども載っている。
芸能評論家の藤原いさむ氏は、事務所の売り出し方がすごいと話している。
「タレントのスケジュールは公開しないものですが、親衛隊を先に立てて、ファンにわかるようにする。それがマスコミの目にとまって人気が増幅されるわけです」
珍しく、メリー氏もインタビューに答えている。アイドルづくりの秘訣について、
「うちの良さは手づくりということでしょうね。うちのタレントにコンテスト出身の子は一人もいない。一からレッスンして育てていく方法だからです。(中略)レッスン場、講師はこちらで用意します。もちろん無料で食事も食べさせたりしてますから、大変な出費ですよ。(中略)ジャニーが親がわりです。私もジャニーも自分のところのタレントが本当に好きで、惚れこんでいるんです」
まだ素朴な事務所という感じが出ている。
だが、元ジャニーズ事務所のタレントが、「清く正しくなんて、冗談じゃない。収容所みたいな雰囲気に、いたたまれなくなって飛び出したんです」という証言をし、ジャニーさんのやさしさは、ある“趣味”からくるものだと告白している。
死者に鞭打つ気はないから、これ以上の引用は控えるが、当時、そうした噂が流れていたのは間違いない。
そこで再度、メリー氏にインタビューすると、表情が一変して、収容所なんていわれるような事実はないとキッパリ。
ジャニー喜多川さんにはスターになる素質を見わける独特の力があるそうですねと聞くと、
「独特の力というのは、何を想定していらっしゃるのか……私が見たところ、特にそういう能力があるとは思えませんけど」
たのきんトリオが当たった秘密は何だと聞くと、
「他のプロダクションが、幼稚園から大学まであるとすれば、うちは幼稚園だけ。それがよかったんじゃないかしら」
今読み返しても、さほどインパクトのある記事ではないが、一般週刊誌で、ジャニーズ喜多川氏の“噂”を記事にしたのは初めてだった。
記事が出てからも、さしたる反響はないように思っていた。もしかするとジャニーズ事務所が告訴してくるかもしれない。そうなれば話題になるなぐらいにしか思っていなかった。
ところが、講談社の上の人間たちは大騒ぎしていたのだ。記事が出てから、ジャニーズ事務所から、「今後、講談社には、一切うちのタレントを出さない」と通告してきたのである。
少年少女をターゲットにしている社内の雑誌編集部からも、猛烈な抗議が来た。
外からの抗議には動じないが、社内からの反発は予想していなかったため、正直、どうしていいかわからなかった。
とりあえず、メリー氏の夫君である藤島泰介氏とは何度かジャズを聴きにいった仲だったから、会って、何とかなりませんかと頼んだ。
だが藤島氏は、彼女はオレがいっても聞きはしないよと、取り合ってくれない。芸能界のドンといわれていた音楽評論家氏にも、事務所との仲介をしてくれないかと頼みに行ったが、あそこはダメだと断られた。
やがてこの話は業界の話題になり、週刊文春が大きく取り上げた。
まだ若かった私は、半ば開き直って、ジャニーズ事務所に脅されて、ゴメンナサイするような講談社なら、いてもしょうがないと思っていた。
しばらくして、定期の異動の前に、私の婦人倶楽部への異動が発表された。私には一言もなく。
組合から、この異動に抗議する気があれば、組合は応援するという話があったが、断った。
講談社は、私を現代から飛ばすことで、ジャニーズ事務所側と手打ちをしたのである。そんな会社に未練はない。辞めようと思っていた。
当時、親しくしてもらっていた「劇団四季」の浅利慶太さんに会って、秘書にしてくれないかと頼みに行った。
私の話を聞いた浅利さんは、「わかった」といってくれた。ホッとした私に彼は、「だが、君は婦人倶楽部がどういうところか知らないだろう。半年我慢して、それでも嫌だというなら、僕が面倒を見る」といった。
この言葉が無ければ、私は講談社をすぐにでも辞めていただろう。結局2年間、婦人倶楽部編集部にいた。仕事はほとんどしなかったが、居心地のいいところだった。
その後、月刊現代に移り、週刊現代に編集長として戻ったのは11年後だった。
ジャニー喜多川氏の訃報を聞いて、往時を思い出した。恨み言をいおうというのではない。
だが、ジャニーズ事務所は、私の件で、出版社を黙らせるにはこの手に限ると考えたのだと思う。また講談社は出版社としての矜持を、あの時、かなぐり捨ててしまったのだ。
以来、ジャニーズ事務所、周防郁雄氏という芸能界のドンのいるバーニングに忖度し、最近のAKB48全盛の頃は、フライデーにAKB48の取材禁止令が出たと聞く。
特に、ジャニーズ事務所はメディアコントロールがうまい。アメとムチを使い分けながら、自分のところのスキャンダルが出ないよう目を光らせてきた。
だが、SMAPの解散を含めて、このところジャニーズ事務所のタレントたちの不祥事が止まらない。屋台骨を支える嵐も来年、活動を中止するといわれている。
滝沢秀明をジャニー喜多川氏の後継者にしたいと考えていたようだが、ジャニーの目を受け継ぐことはできない。メリーさんの娘、ジュリーさんが社長になっても、今いる戦力を維持するだけで精一杯だろう。
ジャニー喜多川氏は、小菅氏にこういったという。
「実はボク、最近、ウチの子がみんな同じように見える」
どういう意味かははかりかねるが、もし、老いからくる審美眼の衰え、または美少年への執着の喪失を感じていたのなら、二度と、田原俊彦もSMAPも嵐も出てはこないだろう。
稀代のエンターテインメントづくりの天才は、もう半分の自分を隠したまま旅立って行った。
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