内田裕也さん死去「代表曲なし」の理由と“ロックンローラー”の在り方
#内田裕也
ロックミュージシャンの内田裕也さんが17日早朝に亡くなった。79歳だった。内田さんといえば、毎年恒例となっている『ニューイヤーロックフェスティバル』の主宰などで知られる。ただ、ミュージシャンとしては「代表曲、ヒット曲なし」ともいわれる。これは不名誉な言葉ではなく、内田さんの“ロックンローラー”としての在り方を示しているといえる。
「内田さんは高校在学中にエルヴィス・プレスリーに憧れ学校を中退、その後は多くのバンドを渡り歩きます。1966年のビートルズ来日時はソロで前座を務め、アニマルズの『朝日のない街』のカバー曲を披露していますね。当時の内田さんは26歳であり、凛々しい姿が垣間見えますね」(芸能ライター)
内田さんの音楽志向はあくまでも洋楽のカバーであり、もともとオリジナルの楽曲への興味は薄かったといえる。そんな内田さんを巻き込んで1970年代はじめに起こったのが「日本語ロック論争」である。
「これは当時、先鋭的な音楽雑誌として知られた『ニューミュージック・マガジン』(ミュージックマガジン)誌上で行われた意見交換を指します。もともとアメリカからの輸入音楽であるロックを、日本語で歌うべきか、オリジナルに忠実に英語で歌うべきかが論点となりました。英語派についたのが内田さんのほか、鈴木ヒロミツらが在籍したザ・モップスです。対する日本語派は大滝詠一、細野晴臣らが在籍したはっぴいえんどのほか、ボブ・ディランらのフォークミュージックに影響を受け日本語で歌っていた岡林信康も加わりました。今からすれば『何を争っているのか?』という話ですが、実際この論争に決着を付けたのは日本語と英語をまぜこぜにした歌詞を歌った矢沢永吉、ジョニー大倉が在籍したキャロルの登場によってです。このスタイルは今のJ-POPでは当たり前のものとなっていますね」(同)
さらに内田さんは、日本人のロックバンドが海外進出するにあたり英語は不可欠というスタンスも主張していた。実際にジョー山中をボーカルに据えたフラワー・トラベリン・バンドをプロデュースし海外でも活躍している。表裏問わない音楽仕事を長年にわたって行っていたのが内田さんであり「代表曲」に収まる人ではなかったのだ。
(文=平田宏利)
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