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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 超問題作で大型新人監督がデビュー!!

超問題作を引っさげ、大型新人監督がデビュー!! 発達障害者の性と承認欲求を描いた『岬の兄妹』

■助監督が常に抱えている悩みとは?

──生活に困った兄妹が、捨てられていたお弁当用の使い切りソースを舐めたり、ティッシュペーパーを「甘い」と食べるシーンも、すごくリアルでした。

片山 使い切りソースを舐めるのは、松浦さんたちのアドリブです。ティッシュを食べると甘く感じるというのは、ネットか何かで読んだものです。僕の実体験ではありません(笑)。

──アカデミー賞受賞作『シェイプ・オブ・ウォーター』(17)のギレルモ・デル・トロ監督は、若手時代にドッグフードを食べていたそうです。『ぐるりのこと。』(08)の橋口亮輔監督は「ふえるわかめちゃん」を食べて飢えを凌いでいたそうですが……。

片山 そうなんですか。そこまでは経験していませんが、大阪から東京に上京してきた20代前半の頃は、六畳のアパートに男3人で1年ほど暮らしていたことがあります。月4万6000円の家賃を3人で割っていたので、経済的には楽でしたが、気分的にはサイアクでした(苦笑)。

──助監督を長くやっていると、「自分はいつ監督デビューできるんだろうか」みたいな不安を感じることがありますか?

片山 それは助監督をやっている人たちみんなが抱えている悩みでしょうね。助監督は誰もが監督になれるわけではありませんから。まぁ、長く助監督をやっていると、チャンスは回ってきます。昔のプロデューサーみたいに「おまえもそろそろ、一本撮ってみるか?」みたいに声を掛けられることは今はないと思いますが、例えばテレビドラマ10話あるうちの1~2話を撮らせてもらえることはあるわけです。でも、それでは自分の色は出せない。やっぱり自分で考えた企画を温めて続け、勝負に出ることが大事じゃないかなと思うんです。

超問題作を引っさげ、大型新人監督がデビュー!! 発達障害者の性と承認欲求を描いた『岬の兄妹』の画像3
インタビューを終えた片山監督。デビュー作『岬の兄妹』は完全なる自主制作。2年間の歳月を費やして完成させた力作だ。

■韓国映画の鬼才から学んだこと

──韓国映画『殺人の追憶』(03)や『漢江の怪物 グエムル』(06)などで知られるポン・ジュノ監督の助監督を務めていたそうですね。どうやってコミュニケーションを?

片山 ポン・ジュノ監督の『シェイキング東京』(08)や『母なる証明』(09)に助監督として就いていました。「ただ働きでいいので」と頼み込んだんです。僕は英語も韓国語もつたないんですが、韓国人しかいない現場でずっと過ごしていると何となく分かるようになってくるものです(笑)。とはいえ細かいコミュニケーションが必要な作業はできなかったので、カメラとモニターの間のケーブルを繋ぐとか、そういう簡単な作業をもっぱら担当していました。ポン・ジュノ監督がモニターを覗いている後ろに立って、「同じカットを40テイクも撮るのか。でも、今のカットはさっきのとあまり変わらないなぁ」なんて見ていましたね(笑)。

──助監督時代から、相当に肝が据わっていたんですね。

片山 そうですか(笑)。ポン・ジュノ監督はとてもオープンな性格で、人間的にも本当に素晴しい方でした。激しい内容の作品が多いけれど、すごくバランスも考えて撮っている監督です。ハードなシーンの撮影がある日は、そのシーンだけしか撮らないとか、俳優にあまり無理な負担が掛からないようにしていました。『母なる証明』のときは1日5カット程度しか撮っていません。その分、撮影期間が半年くらいありましたけど。時間を費やして、いい作品を撮るという韓国映画の姿勢は、すごく刺激になりました。

──日本に戻ってからは、山下敦弘監督の硬派文芸路線『マイ・バック・ページ』(11)や『苦役列車』の助監督に。

片山 僕の知り合いが「お前に合っているはずだ」と誘ってくれたんです。うれしかったですね。『マイ・バック・ページ』や『苦役列車』で松浦さんとも知り合いましたし、面白い現場でした。アイドル主演映画の現場にも参加し、自分にはなかった視野を広げるいい勉強になったと思います。助監督時代にいろんなタイプの作品を体験しておくことは大切ですね。

■高校時代の挫折が、映画監督を目指す転機に

──大阪で過ごした高校時代は、花村萬月の小説などを読んでいたとのこと。どんな青春を送っていたのか気になります。

片山 高校時代はラグビー部で3年間けっこうマジメに練習やっていました。とは言っても、映画の試写会の抽選に当たったりすると、母親に頼んで「親戚が入院したので……」など学校に電話してもらって、練習を早退したりしていました(笑)。本を読むのも好きで、学校の行き帰りや部活が休みの日はよく小説を読んでいました。それでも体がデカく、足も速かったんで、顧問の教師からはラグビーで大学推薦できるぞと声を掛けてもらっていたんです。高3のときに鎖骨を折って、それで最後の全国大会は出場できませんでした。多分、怪我をしてなかったら、大学、社会人でもラグビーをずっと続けていたんじゃないかと思います。

──ラグビーに挫折したことが転機になって、映画の世界に。

片山 怪我で大会に出場できなくなったときは途方に暮れました。高校卒業後もしばらくプラプラしてバイクで旅をしたりしていたんですが、しばらくしてシナリオの勉強を始めたんです。その頃、好きだったのはデヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』(95)ですね。スタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』(87)も大好きで、今でもよく見直しています。痛みを感じさせる映画が好きなんです。それから東京に上京して「中村幻児映像塾」に通い、映画の現場に入るようになったんです。

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