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本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」

千昌夫、小林幸子、ぴんからトリオ……レジェンドたちを育てた“重鎮”肺がんで逝く

千昌夫、小林幸子、ぴんからトリオ……レジェンドたちを育てた重鎮肺がんで逝くの画像1
畑中葉子公式Twitter(@hatanaka_yoko)より

 千昌夫や小林幸子、ぴんからトリオを育てた老舗芸能事務所の元「第一プロダクション」(2017年に解散)社長の岸部清さん(享年88歳)が、2月11日、肺がんによる心不全で亡くなった。

 筆者は数年前、横浜市の大学病院に取材に行った帰り際、松葉杖をつく、岸部さんに似た患者さんを見かけ、思わず「岸部社長ですか?」と声をかけた。すると、驚いた様子で「俺がここに入院していることは内緒。絶対誰にも言わないでくれ」と口止めされた。業界関係者が入院を知れば、見舞いに来なければならず、迷惑をかけると思ったようだ。気遣いの人だった。

 岸部さんは、大学在学中からウエスタンバンド「東京ウエスタンボーイズ」のメンバーとして活躍。その後、同バンドが「マウンテンボーイズ」と合併して「サンズ・オブ・ドリフターズ」(ザ・ドリフターズの前身)を結成し、その初代リーダーを務めた。その後、ミュージシャンから裏方に回り、1960年に「第一プロダクション」を設立した。

 第一プロでは、千昌夫や扇ひろ子、新沼謙治、小林幸子、ぴんからトリオらを輩出し、演歌全盛時代を築いた。とりわけ、ぴんからトリオの「女のみち」は、400万枚を突破する空前の大ヒットを記録した。

 さらに、人気演歌歌手を抱えていたこともあって、興行にも強かった。当時の興行は、暴力団との関係も密接だった。芸能プロの所在地といえば、赤坂、六本木というイメージが強かったが、岸部さんは国会議事堂がある永田町に事務所を構え、にもかかわらず、強面のマネジャーが多く、取材のため事務所に出かけた筆者もビビったことがあった。

 その後、85年には、すでに韓国でデビューしていた桂銀淑を招き、日本デビューさせた。そのデビュー曲「大阪暮色」は大ヒットし、その年の全日本有線放送大賞の新人賞を受賞。その後も桂は「すずめの涙」や「酔いどれて」「真夜中のシャワー」など、次々にヒットを飛ばし、88年からは7年連続で『NHK紅白歌合戦』にも出場。“演歌の女王”と呼ばれるようになった。

 ただ、事務所関係者は、早くから桂に手を焼いていたようだった。というのも、桂の母親は、韓国・ソウルでクラブを経営していたのだが、その店が日本の暴力団の御用達とされ、桂自身もデビュー当時から暴力団関係者との“黒い交際”のウワサが絶えなかったのだ。

 その桂が、新宿歌舞伎町のホストクラブにハマり、タクシーの中でホストと痴話喧嘩の末、持っていた現金200万円にライターで火をつけるトラブルを起こしたという証言を入手した。当時、隔週週刊誌「微笑」(祥伝社/休刊)の専属記者だった筆者は、さっそく取材を始めた。

 ホストの自宅を突き止め、桂が出入りしていないか、張り込みを続けた。暮れも押し迫った頃、桂がこのホストと半同棲しているのを確認した。しかも、このホストはドラッグ中毒で、桂にも薬物使用疑惑が浮上した。

 事実関係を質すため、筆者は岸部さんを取材した。『紅白』出場直前ということもあって、岸部さんは、当初、半同棲について「そんなことはない」と疑惑を否定したが、ホストに“ドラッグ疑惑”があることを伝えると「桂に確認して、事実であれば別れさせる、今後、暴力団との交際も断ち切らせる」と約束してくれた。

 結局、このスキャンダルは、当時の「微笑」の副編集長が桂の大ファンだったことから、お蔵入りになった。しかし、これが縁で筆者は岸部さんと親しくなった。

 ちなみに桂は、その後の96年に「第一プロ」から独立したものの、借金トラブルに見舞われた挙げ句、2007年には薬物所持の現行犯で逮捕され、国外退去処分を受けた。韓国に戻った後も、度重なる薬物トラブルや詐欺容疑で逮捕されている。

 岸部さんとは、横浜の病院で偶然再会したのが最後となってしまった。まさか、肺がんと闘っていたとは──。また一人、日本の戦後の芸能界を語れる重鎮が亡くなった。岸部さんに改めて合掌。
(文=本多圭)

最終更新:2019/02/22 19:30
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