ナンシー関は見抜いていた? 松本人志のセクハラ発言は「庶民感覚」の欠落なのか
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■松本「運営側って言うけど、どんな層のどのぐらいの人たちがやってるの?」
かつて、ナンシー関がダウンタウンを肯定的に評してこう言っていた。
「ダウンタウンは、ある意味で『庶民感覚』が欠落している部分がある」(『何をいまさら』角川書店)
「庶民感覚」、つまり「さまざまな事象に対する世間一般の平均的な感情」を欠落させた彼らは、世間には見えていないものが見えている。だから、「全国民の絶対的好意」を取りつけていた貴花田(当時)や田村亮子(同)ですら、彼らにとってはツッコミの対象となる。ナンシーはこのように、「庶民感覚」の欠落にダウンタウンの「(お笑い能力の)地肩の強さ」の根拠を見て取った。1992年のことである。
それから27年後の2019年。あの場面で「お得意の体を……」と言う松本は、いまも「庶民感覚」が欠けているようにも見える。普通の人はあまり言わないことを言っているのだから。
では、それは面白かったのか? 芸人としての「地肩の強さ」を示すものだったのか?
というかむしろ、「お得意の体を……」は、「庶民感覚」をなぞった発言になってはいないか。だって、広く知られた指原の過去のゴシップに絡めた、わかりやすい下ネタなのだから。指原に限らず、芸能人はネット上では言われたい放題だ。そんなネットの声が、現在ではひとつの世間を、つまり「庶民感覚」を形成してしまっているのだから。
さて、この回の松本の発言で個人的に興味深かったのは、次のものだ。
「運営側、運営側って言うけど、どんな層のどのぐらいの人たちがやってるの?」
世間はいつの間にか、指原らと一緒に運営を批判している。けれど、運営と呼ばれているそれは、普通なら「会社」とか、もっと具体的に「AKS」いった言葉で名指されるものであるべきだ。なぜ、「運営」と呼んでいるのか? 学園祭の実行委員会みたいな名称で呼ぶことで、世間にアマチュア的な印象を植え付け、免罪されていた部分もあったのではないか? いろいろと発覚した後も「運営」と呼び続けるその姿勢は、事件ではなく、芸能ニュースとしてこの案件を処理する動きに、棹さしてしまうのではないか――。
と、そこまで話を広げると、松本の発言の意図からは外れてしまうのかもしれない。けれど、アイドルもファンも世間も同じように使っている「運営」という言葉に、曖昧にされがちな何かがあると感じ取った松本の嗅覚。そこに、庶民感覚から逸脱した「地肩の強さ」の片鱗が垣間見えないか――。
これはこれで、ボクの側で作り上げてしまった“錯覚”なのかもしれないけれど。
(文=飲用てれび<http://inyou.hatenablog.com/>)
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