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【wezzy】

松本人志はなぜ炎上“被害者”になり、面白い表現への挑戦をやめてしまうのか

松本人志が1月13日放送分の『ワイドナショー』(フジテレビ系)で指原莉乃(HKT48)に向けたセクハラ発言について、1月20日放送の同番組で釈明した。しかし、これがまたひどいものだった。

 まず、先週の松本人志のセクハラ発言について振り返っておくと、この日の放送では、指原がNGT48の一連の騒動について説明をし、そのうえで、<今回のことがあって余計に、メンバーと運営の間に立つ人間が少な過ぎるので、そのケアはこれからもしたいなと思った>と、今年の4月にAKB48グループから卒業した後も残されたメンバーのために継続してグループに関わり続ける意向を語った。

 NGT48のみならずAKB48グループ全体を揺るがす大きな出来事だけに、この日の指原は非常に緊張した面持ちで言葉を選びながら話していたのだが、それだけ真摯に話している指原に向かって松本人志はこんな言葉を浴びせたのである。

<お得意の身体を使ってなんかするとかさ>

 『ワイドナショー』の発言が炎上するのはいつものことだが、所属タレントが男性からの暴行を告発し、それを運営が隠ぺいしようとした問題に対して放たれた、<お得意の身体を使ってなんかするとかさ>は、普段とは違う勢いで大炎上。SNS上で批判の声が上がるのはもちろん、BPO(放送倫理・番組向上機構)の審議に入れるべきとの声も起き、インターネット上では実際にBPOへ呼びかける動きも起きた。

 炎上中の1月15日には指原が<ワイドナショー、緊張しすぎて本当に記憶がほとんどなく…改めて録画をチェック…松本さんが干されますように!!!>とツイート。巧みな機転で返すことにより炎上は終息したが、これによって松本の<お得意の身体を使ってなんかするとかさ>という発言が帳消しになったわけではもちろんない。

松本人志はセクハラ炎上をどう語ったのか?
 1月20日放送の『ワイドナショー』はまず、この炎上に関する釈明から入ったのだが、MCの東野幸治から先週の発言が炎上を起こしていると話を振られた松本は、いきなりこんな混ぜっ返しをした。

<僕は今日は、今日はというか、今日をもってですね、「無口なコメンテーター」という新しいジャンルで、ギャラ泥棒になっていこうかなと思っているんですけどね>

 この期に及んでジョークに落とし込もうとしている態度に愕然とさせられるが、その後に語られた言葉からも、今回の失言を自分自身にフィードバックして、今後の番組づくりに活かそうとする姿勢は微塵も見られなかった。

 

『ワイドナショー』スタッフが松本人志の発言をカットしなかった理由
 『ワイドナショー』は事前収録の番組であり、誰が見ても問題のある<お得意の身体を使ってなんかするとかさ>がカットされずに放送されたことに対し、フジテレビ側の責任を問う声も起きていた。

 これに対し松本は、<基本的にこの番組は僕の言うことをできるだけカットせずに使っていきたいという暗黙の了解というか、決めてはないですよ、決めてはないですけど、まあそういう番組なんですよ>と、『ワイドナショー』の編集における基本姿勢を説明した。

 つまり、逆に言えば、松本がカットしてくれるようスタッフに指示を出せば、本番で口が滑ったとしても、後からその発言をなかったことにすることが出来ることを意味する。

 では、なぜ松本はカット指示を出さなかったのか?

 その理由について、松本は、<理由は簡単なんですよ。鬼のようにスベってたからなんですよ。鬼のようにスベったら、逆に恥ずかしくて言えないですよね。あんだけスベってたら恥ずかしくてね。はやく家に帰りたいという。それがあって言えなかった>と説明した。

 確かに、松本本人はジョークのつもりであっただろう<お得意の身体を使ってなんかするとかさ>に、スタジオから笑い声が漏れることはなかった。こういったセクハラおじさんの交わし方には慣れている指原ですら(そういった技術を向上させなければ生きて行けない社会であること自体に問題があるのは言うまでもない)、<なにを言ってるんですか。ヤバッ>と、ギリギリで空気を壊さないように苦笑いを浮かべることしか出来なかったことが、“いかにスベっていたか”をなによりもよく表している。

 要するに、NGTの暴行事件が茶化していいネタではないことは、その場ではっきりしていた。その構図に自覚的なのであれば、恥ずかしいもなにもなく松本はスタッフに指示出しをしたはずだが、事件の深刻さを想像することもできず“鬼のようにスベッた”と感じただけだったようだ。

 いち出演者にも関わらず編集権の一部を付与されるような権力をもっているとの告白は、余計今回の騒動における松本の問題点を浮き彫りにする。つまり、あまりのひどさにスタジオ中が引いていたことにすら気づかず、「ボケがスベった」ぐらいの認識でしかなかったということの証左だからだ。

 

松本人志はこの騒動に逆ギレ
 しかも、松本はこの一件からすらも何も学ぶことはなかったようだ。あくまでも自分は炎上被害者、との立ち位置を崩さず、炎上=つまらない奴らのクレーム、ぐらいに捉えていることが次の言葉からわかる。

 これからタレント活動をしていくうえでの自身の発言について松本は、<炎上はね、この先も僕はしていくと思うんです。これはもうしょうがない。で、炎上で得られるものもあるし。『なるほどなって、こんな大火事になるんや』。で、大火事になったときに本当に大切なものが見えてくるし、もち出して逃げなあかんものが何なのかも分かるし>としたうえで、語気を強めてこのように叫んだのだ。

<こういう時に消化器を持って駆けつけてくれる人がよく分かるしね!>

 性差別をはじめとした問題発言を繰り返しても松本が問題なくレギュラー番組を続けていけるのは、ひとえに彼が芸能界のなかで多大な権力を握っているからである。

 そろそろ、自分自身の置かれているその状況を批判的に見つめ直さなければならない時が来ているのは間違いないが、<こういう時に消化器を持って駆けつけてくれる人がよく分かるしね!>という叫びは、この状況になってなお、「俺の意見に従わない人間は干すぞ」という圧力として機能してしまう。そのことにさえ未だ無自覚だ。

 確かに、その姿勢では、これからも炎上は続いていくだろう。

芸人の「コンプライアンス批判」に正当性はあるか?
 そして松本はお決まりの「コンプライアンス批判」をもち出した。

<それなりに親しくても、テレビに出た時はもうちょっと固っ苦しくしゃべらなあかん世の中になってきたのかな>

 <お得意の身体を使ってなんかするとかさ>という発言はそもそも、カメラの前であろうと楽屋であろうとひどい侮蔑発言であると思うが、それでもテレビの前で発言することがさらに許されないのは、テレビでの発言には、会話の相手以外にも、視聴者という第三者がいるからだ。

 松本がテレビを通じて女性蔑視的な発言を行い、それにスタジオの出演者が異議申し立てをしないような状況がお茶の間に流れれば、そのようなコミュニケーションのあり方が「許される」ものであるとのお墨付きを与えてしまう。

 

 確かに、松本が発したようなセクハラ発言が「お笑い」という大義名分のもとに許され、放置されてきたことは事実だ。

 しかしそれは、差別的な考えのもとに一部の人を愚弄し、その姿をみんなでよってたかって嘲笑するグロテスクな笑いであり、かつてそれが表向き許されていた時代だって、「チビ、デブ、ブス、ハゲ」のような発言で笑う人々のなかには、その言葉に傷つき、奥歯を噛み締めていた人がいたはずだ。

 いまはようやく、そういった表現をすることに異議申し立てが起きる時代となった。松本はこの異議申し立てを“笑いのわからない奴らのクレーム”扱いし、まともに取り合わないつもりだろうか。

坂元裕二が提示する新しい時代の「表現との向き合い方」
 こういった「コンプライアンス批判」の動きに対し、『Mother』(日本テレビ)、『Woman』(日本テレビ)、『カルテット』(TBS)、『anone』(日本テレビ)など多くのヒットドラマを手がけた脚本家の坂元裕二は、『脚本家 坂元裕二』(Gambit)のなかで、このような意見を述べている。

<ベテランの芸能人の方たちが、「最近はコンプライアンスとか苦情が多くて、面白いものがつくれない」ってよくおっしゃるじゃないですか。「女性をブスって言ってもいいじゃないか。セクハラもコミュニケーションだ。差別も言論の自由だ」っていうのを、僕は疑問に思っていたから、それを全部クリアしても面白いものがつくれると思いますけどね、ということをやってみたかったんですね。(中略)「ポリコレでテレビがつまんなくなったんじゃないよ」ってことは言ってみたかったし、むしろそれを守ったことで新しい場所に行けるという気がしたから、「できるんじゃない?」って思いましたね>

 坂元裕二の言う通り、コンプライアンスを意識することで、新しい表現を生む可能性がある。これはドラマや映画に限った話ではなく、バラエティでもそうだろう。

 セクハラやパワハラなど、昭和の時代から何万回、何億回と繰り返されてきた、マンネリ化も甚だしいバラエティ番組のフォーマットが使えない状況は、新しい笑いのあり方を生んでくれる源泉ともなり得る。

 「コンプラ批判」を繰り返し、古い時代の価値観にしがみついては炎上を繰り返している芸人やテレビマンにも、コンプライアンスをクリアした新たな笑いの表現を模索してほしい。

(倉野尾 実)

最終更新:2019/01/22 07:15
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