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深読みCINEMAコラム【パンドラ映画館】vol.513

“酒田大火”というタブーを映画で払拭する試み。地方が豊かだった記憶『世界一と言われた映画館』

酒田大火というタブーを映画で払拭する試み。地方が豊かだった記憶『世界一と言われた映画館』の画像3
劇場の内部。壁に緑色のベルベット生地、スクリーンを覆った緞帳も緑色だったことから「緑館」と呼ばれた。

 やはり酒田市を舞台にしたドキュメンタリー映画『YUKIGUNI』(現在公開中)の主人公である大正15年(1926)生まれの現役バーテンダー・井山計一氏も、佐藤監督のインタビューに応えている。佐藤久一と仲のよかった井山氏が酒田市で経営しているバー「ケルン」から、「グリーン・ハウス」にバーテンを派遣していた時期もあったという。稼ぎどきであるはずの週末には、地元の演奏家たちを招いてのライブイベントが度々開かれた。「グリーン・ハウス」は単なる映画館ではなく、酒田の人々にとっての社交場であり、そして東京と遜色ない最新の情報発信スポットでもあった。

 緑館と名づけられたこの映画館のことを知れば知るほど、支配人だった佐藤久一がどんな人物だったのか気になってくる。昭和5年(1930)生まれの久一は、地元の酒造メーカー経営者の長男として不自由のない幼少期を過ごした。新しいものに対する目利きに優れ、センスのよさを父親に買われ、日大芸術学部を中退した久一は、20歳にして「グリーン・ハウス」の支配人に就任。酒田という地方都市にありながら、「世界一の映画館」を育て上げた久一だが、それだけでは満足できなかった。1964年、既婚者だった久一は電話交換手だった女性と駆け落ち同然に上京。映画評論家・荻昌弘の勧めで“東洋一”と呼ばれた日生劇場に勤めるも、3年後には酒田に本格的な洋食を広めようと帰郷してフランス料理店を開業する。採算を度外視して、食材選びと客への細心のサービスに努めた久一のフランス料理店は東京や大阪でも評判となり、丸谷才一、開高健、山口瞳らが絶賛する名店として知られることになる。

 仕事と恋にあらん限りの情熱を注いだ佐藤久一の生涯は、地元の山形放送でラジオドラマ化され、そのとき久一役を演じたのが2018年2月に急逝した大杉漣だった。久一の生き方にシンパシーを覚えたことから、大杉は『世界一と言われた映画館』のナレーションも引き受ける。現在の酒田市には常設の映画館がないため、地元でのお披露目上映ができずにいた『世界一と言われた映画館』だったが、大杉は自身のバンドのライブと兼ねる形で、この映画の上映イベントを酒田市で開いている。このときのイベント費用は、大杉が出演していた『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ系)の「ゴチになります!」で得ていた賞金が充てられたことを、佐藤監督は教えてくれた。

 1976年、佐藤久一は「グリーン・ハウス」の経営からすでに離れていたが、フランス料理店の入っていたビルの屋上から酒田大火を見つめることになった。晩年の久一はフランス料理店の累積する赤字とアルコール依存に悩まされ、67歳でその生涯を終えている。映画とフランス料理を通して酒田市に大きく文化貢献した久一を顕彰しようという動きが彼の死後にあったが、酒田大火の火元が「グリーン・ハウス」だったことがネックとなり実現しなかったようだ。それほど、「グリーン・ハウス」=佐藤久一というイメージが強かった。

 地元の由緒正しい寺院で行なわれた佐藤久一の葬儀の際にも、「ムーンライト・セレナーデ」が流れたという。仕事に恋に、そして映画に、飽くなきロマンスを求めた男たちがいた。そんな彼らを鎮魂するかのように、「ムーンライト・セレナーデ」の甘いメロディが客席へと流れていく。

(文=長野辰次)

酒田大火というタブーを映画で払拭する試み。地方が豊かだった記憶『世界一と言われた映画館』の画像4

『世界一と言われた映画館』
語り/大杉漣 プロデューサー/髙橋卓也 監督・構成・撮影/佐藤広一
配給/アルゴ・ピクチャーズ 1月5日(土)より有楽町スバル座ほか全国順次公開
c)認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画際
http://sekaiichi-eigakan.com/

『YUKIGUNI』
監督/渡辺智史 撮影/佐藤広一 ナレーション/小林薫
配給/有限責任事業組合いでは堂 1月2日よりポレポレ東中野、アップリンク渋谷ほか全国順次公開
http://yuki-guni.jp/

最終更新:2019/01/07 12:05
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