LGBTはカミングアウトすべき? すべきでない?
最近、ツイッター上で、性的指向に関するカミングアウトについて、否定的に語る意見と、それに対する批判が飛び交っていた。私が目にした否定的な意見は、主に次のような主張だ。
「『LGBT活動家』は、当事者に『カミングアウトすべきだ』と言い過ぎている、カミングアウトを考えている人はそのことによるリスクを十分に考えるべき、カミングアウトにより自分は楽になるかもしれないがそれで相手が重荷を背負うことになることも考え慎重にならなくてはいけない」
それに対して、いろんな人がそれぞれの観点から批判していた。まず冒頭の「活動家は」が曲解であるということは共通した批判だったと思う。LGBTの人たちが社会でより顕在化した方がいいと思い活動している人たちでも、基本的に「カミングアウトをしたいと思った人がしやすい社会を」、ということを言っているのであって、その人の置かれている状況を全く考えずにむやみやたらに勧めている人を私は知らない。
私自身、約10年前に『カミングアウト・レターズ』(太郎次郎社エディタス)を友人と編集し、今年『カミングアウト』(朝日新聞社出版)を出版したが、どちらでも、誰かが誰かにカミングアウトすべき、すべきでないとは言えないという立場で書いている。
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しかし「LGBT運動家」の曲解より私が気になるのは「カミングアウトのリスクを考えるべき」「相手にとって重荷になる」という二つの否定的な語りだ。というのも、こうしたカミングアウトの見方は、人を完全に個別化し、共感や共苦といった人がつながる回路を閉ざしてしまうような、ある人間観、コミュニケーション観に基づいているからだ。
それは、伝える側が自分の中だけで考え、自分の中だけで生まれた欲求に動かされ判断し、相手に一方的に自分の情報を自分の中にあった感情とともに手渡すというものだ。
その後、情報を受け取った側もまたその人だけでその情報を背負う。このイメージは、まずカミングアウトを、それがおこなわれる文脈から完全に切り離しているし、人は互いに完全に独立した個で、分離独立して存在していると考えている。しかし、そのイメージは、現実の人間やコミュニケーションとかけ離れていると私は思う。
背景と関係性の中で起きるカミングアウト
コミュニケーションというものは基本的にそうだと思うのだが、カミングアウトには、それが生じる社会的な背景、個人的な関係性があり、それを抜きにして語ることはできない。
社会的背景は、例えば「同性のことが好きである」ということを言わない場合には、基本的に異性が好きであることを前提として話がされるということであったり、異性を好きな人が、それにまつわる話――心を寄せている人の話、付き合っている人の話、結婚相手の話、好きなタイプの人の話――を家族や友人、同僚としながら、それによって関係性を深めていたりすることである。あるいは、異性愛という性的指向が、結婚という形で制度化されているが、同性愛はそうではないことも重要な背景の一つだ。
そうした生活の中で、自分の性的指向を言いたいという思い、異性愛者のふりをすることが嫌になる感情といった気持ちが生じても、それは当然なことだ。しかしまた、同性を好きなことを否定的に語る言葉への出会い、あるいはそうしたことは隠すべきという価値観を自分の中に取り入れる中で、伝える気持ちが起きないということも、また同じく当然のことである。
一方、個人的な関係とは、ある年齢になってくると親から異性との結婚を期待する声が聞かれたり、あるいはプレッシャーをかけられたりすることなどがある。異性との付き合いが全くないがゆえに孤独なのではと心配している親に、自分には同性パートナーがいるのだと伝えたいという思いも個人的な関係性だ。また、自分のパートナーと関係性を伝えておかなければ、どちらかに何かあった場合に困ると考えることもあるだろう。
こうした個人的な関係のありようがひとりひとり違うし、社会的な背景の取り入れ方も皆違うので、どういう決断をするかは、とても複雑な流れの中にある。その複雑さを前にして、慎重であれとも、ぜひやるべきとも一般化して言うことはできない。
だが、どういう社会的な価値観が広がっていくほうがいいか、ということを考えることはできる。私は、社会全体によりカミングアウトしやすいような価値観が広がっていってほしいと思っている。そして、個人的関係も社会の中に埋め込まれているのだから、そうなれば、個人関係でも言いやす関係が増えていくと考えている。そういう社会を目指すことは、したくない人はしなくていい、ということと矛盾しない。
また、カミングアウトをしやすい価値観が広がる社会は、カミングアウトを受け止めやすい社会でもある。もし、カミングアウトを重荷と感じる人が多いなら、そう感じる人が少ない社会をつくっていこうと考えるほうが希望があるのではないだろうか。
共有するものとしてのカミングアウト
カミングアウトは人と人がどういう風に関係を築いているか、ということを考えさせるきっかけにもなる。それは人間観、コミュニケーション観そのものとつながっている。
『カミングアウト・レターズ』の冒頭に収められているのは、ゲイである正志さんとお母さんの往復書簡の中で、正志さんはこう書き記している。
それまでの二十年みたいに、俺がゲイやってことを知られたくないって理由だけで、俺なりに幸せなこと/悲しいこと/嬉しいことも分けあえず生きる人生を続けるのは嫌やったから。
俺が、母さんと父さんに完璧に嘘をついて生きていけるほど、器用やない限り。
俺は男が好きになるように生まれた。でも、それは小さな違いなだけで、俺が幸せになれへんこととは違う。俺はそれなりに幸せやったりもする……他の人と同じように。時々は俺もつらいかも知れへん。他のみんながそうであるように。
そういう話も家族としたいと思う自分がおった。親子でも分けあえなくてもええことも、きっとあるんやろうけど、俺は、俺が幸せやということを、分からせてやりたかった。
ゲイであることを知られたくないことが、なぜ、「幸せなこと/悲しいこと/嬉しいことも分けあえず生きる」ことになるのか。
まず、大切な恋人やパートナーとの関係とともに日々のことを話す、話さない、ということを思い浮かべる人が多いだろう。私もそうだ。しかし、私がイメージするのはそれだけではない。お互いがゲイであることがきっかけとして知り合った大切な友人たちのこともある。そして、その人たちと一緒に楽しく過ごした時間についての話、厳しい状況で助けてもらったことへの深い感謝の思い、その友人が病気をしているときの不安、また、時に辛く悲しい永別のこと。それらは、実際に私自身が経験してきたことだ。
もちろん、こうしたことを話すか話さないかが大きな意味を持つのは、家族との関係だけではない(家族に対してそういう親密な思いを抱かないという人もいるだろう)。友人との関係でも言えることだ。
私たちは、様々な人との間にさまざまな物や事を共有して、関係性をつくり、親密なネットワークをつくり、コミュニティ、社会をつくっている。個人と個人の関係では、お互いのことに関する情報、感情などの共有が関係性をつくっていく。
それが人と人との間の、とても一般的な関係性の築かれ方だ。その中で、異性を好きなことは共有することが当たり前なのに、同性を好きなことは共有するのが難しいという社会状況はいびつであることは確かだ(しかし、それと個々人が最終的にどう判断するのがいいかは別の問題である)。
変化する/させるものとしてのカミングアウト
カミングアウトは、ひとりひとり異なる背景と関係性の中で生じ、共有される。しかし共有されたことも、関係も固定的なものではない。伝えられた相手が、最初はつらく感じたり、怒りをもって受け止めたりしたが、時間をかける中で変わっていくことも多い。
『カミングアウト』に収めた8つのカミングアウトストーリーの中にも、そうした変化が記されているものがいくつもある。
ゲイのかつきさんは、カミングアウトをめぐって激怒した彼氏のお母さんの話を何時間にもわたって聞かされる場面に直面することになる。しかし、誠実で真摯な言葉かけをすることでお母さんからの理解を得た。秀夫さんは、ゲイであることをカミングアウトした後、お母さんと衝突したものの、時間を経てお互い歩み寄ることができた。裕子さんは、娘のえまさんからレズビアンであるということを聞き、悲しみにくれる時間を過ごすが、その後、そのことをしっかり受け止め、家族に伝える役割を果たしていった。
そうした体験談が教えてくれるのは、カミングアウトをどう受け止めるか、ということに関する変化だけでなく、人と人との関係中での衝突や摩擦、共感、共苦などを経て人はお互いに変化していくということだ。
もちろん、カミングアウトをきっかけに関係が悪化してしまい、そのままということもありえる。それは否定しない。ただ、強調しておきたいのは、カミングアウトをしたことがどういう意味を持つかは、それまでに長いプロセスがあるのと同じく、その後も長い時間が経ってみないとわからないことが多い。そして、その意味を変えるための働きかけもできる。
人と人は何かを共有すること、その中でともに変化していくことによって、自他の間に明確な線引きができない存在になっていく。そうして、個=孤に閉ざされずに生きる。誰ともつながっていく必要があるわけではないけれど、そうしたつながりが広がることが、個人も社会も豊かにする。
カミングアウトは、そうした、人がどうやってつながっているのかということを改めて気付かせてくる行為でもある。
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