“革命家”足立正生が語る若松孝二と共闘した時代「若者が感じる閉塞感は今も変わらない」(後編)
#映画 #インタビュー #若松孝二 #止められるか、俺たちを
■ドラッグは創作に影響を与えたのか?
──足立さんが「若松プロ」に戻って監督した『噴出祈願 15歳の売春婦』(71)は、『止め俺』では荒井晴彦(藤原季節)、吉積めぐみ(門脇麦)との共作として描かれていましたが、実際にはどうだったんでしょう。
足立 「若松プロ」では、脚本のほとんどは僕が書いていました。「若松プロ」のヤツらはワーワー言うけど、誰もホンにまとめようとしないから、僕が書くしかなかった。『噴出祈願』のときは、僕と荒井晴彦がめぐみのアパートに行って脚本を書いた。めぐみも撮影が終わってから合流したんだけど、荒井は鉛筆を削るだけだったし、めぐみもアイデアをろくに出さないから、僕がひとりでワーワー言いながら書いていました。それでも、僕より若い荒井やめぐみの感性はなるべく反映させるようには努めました。一人で書いているよりは、話し相手がいたほうがやはり筆は進みます。近くに批評家がいてくれると、すぐに意見が聞ける。合作って、そういうものです。意見を出し合い、評論しあいながら脚本をまとめていく。黒澤明監督もその頃は脚本家を3~4人集め、複眼的な視野から脚本を練っていたわけです。
──最近の日本映画は複数の脚本家による共作はあまりない。集団創作が増えれば、もっと面白い作品も生まれるのではないかと思います。
足立 それは今の日本映画が、原作ものが多いからでしょう。小説や漫画、アニメ作品を実写映画化するという作業は、原作を批評するという行為が映画の機軸となるわけです。そういった作業は、一人のほうがスムーズに進むかもしれない。僕は原作ものが好きじゃないのでやったことがないけど、『まほろ駅前多田便利軒』(11)や『光』(17)の大森立嗣監督なんかは、作家の三浦しをんとフィーリングが合っているんでしょう。それはそれでいいと思う。それよりも今の日本映画の問題点は、製作委員会方式が主流になってしまっていること。いろんな立場の人が関わることで、角が取れた丸い作品しか生まれてこない。みんなが「面白い」と言うような企画からは、本当にすごい映画は出てこないと思いますよ。
──『新宿マッド』(70)では、シンナーでハイになっている若者たちの姿が印象的です。1960~70年代に流行っていたドラッグが、作品づくりに影響を与えた部分はあったんでしょうか?
足立 当時はシンナーやハイミナールで酩酊している若者たちが、夜になると新宿駅東口の芝生にたくさんいました。ニブロールはハイミナールよりキツかった。押し入れで大麻を育てるのも当時は流行していた。そういうドラッグの力でぶっ飛んだものを書こうとする人も確かにいました。僕も大学時代には「LSDで人間の意識はどう変化するのか」といった実験を、医者立ち会いのもと学園祭でやったりもしました。でも、僕にはドラッグは邪魔にしかならなかった。僕の場合はほとばしるイメージをどう抑え込んで脚本にするかが重要だったので、ドラッグをやると仕事にはならなかったんです。ドラッグで一時的に憂さを晴らす人もいたんでしょうが、ドラッグではカタがつかないことが生きているとあるわけで、僕にとってはそこが重要でしたから。
■闘いの場は映画世界から現実の世界に
──『止め俺』では、めぐみさんの足立さんに対するプラトニックな恋愛も描かれています。
足立 実際もそうだったみたいだね。若松に比べ、僕は優しかったから(笑)。でも、僕はその頃はもう結婚もして、子どももいた。めぐみは映画のことをもっと学びたいという思いが強く、僕は彼女の刺激になるような場所へよく誘いました。彼女は大学生のことを「ケッ」と思っていたけれど、大学の討論会などに僕が連れていくと、大学生はみんながみんなバカというわけじゃないことが彼女にも分かったみたいだね。めぐみにとって決定的だったのは、『赤軍 PFLP 世界戦争宣言』(71)でしょう。僕らは赤バスに乗って、『赤P』を上映しに日本各地を回ったわけですが、本当は彼女も赤バスに乗りたかったんです。でも、めぐみまで赤バスに乗ると「若松プロ」で映画を作るヤツが誰もいなくなってしまう。それで僕が「お前は残れ」と言ったんです。彼女が屈折したとしたら、それが原因だったかもしれません。
──1971年のカンヌ映画祭に若松監督と出席した際には、オノ・ヨーコとジョン・レノンからサインをもらったそうですね。「若松プロ」で留守番をしていためぐみさんへのお土産だったんでしょうか?
足立 そうです。監督週間にオノ・ヨーコが監督した『FLY』(71)という短編映画が上映され、オノ・ヨーコはジョン・レノンと会場に来ていました。僕が「きゃー、ビートルズ~! サインしてぇ!」とお願いすると、ジョン・レノンは「コンニチワ、バカヤロウ」と返してくれました。オノ・ヨーコは「気にしないで。ジョンは日本語、この2つしか知らないのよ」と笑っていました(笑)。もらったサインは、日本に戻ってめぐみに渡しました。後から、あのサインはけっこうな値段になるんじゃないかという話になったけど、探してもどこにもなかった。思い返せば、めぐみの葬儀のときに、このサインも彼女のものだからと棺に入れて燃やしたんです。
──足立さんは1971年に続き、74年に再び中東へと渡り、映画界ではなく現実世界での革命闘争に身を投じることに。
足立 アフリカ諸国で第二次革命が起きようとしていたタイミングでした。植民地支配からの独立を次々と果たしてはいたけれど、植民地時代の枷がまだまだ残っており、アルジェリア、モロッコ、ボルサリオなどで新たな闘争が始まろうとしていたんです。
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