「若松さんが亡くなり、青春が終わったと感じた」白石和彌監督が語る若松孝二から受け継いだ遺産
#映画 #インタビュー #若松孝二 #止められるか、俺たちを
珠玉の青春映画が誕生した。門脇麦主演作『止められるか、俺たちを』は、インディーズ映画界の巨匠だった若松孝二監督が1965年に立ち上げた「若松プロ」を舞台にした実録群像劇だ。低予算のピンク映画ながら『壁の中の秘事』(65)がベルリン国際映画祭に日本代表として出品されるなど、第一期黄金時代を迎えていた若松監督と、そのブレーンを務めた大和屋竺(のちの『ルパン三世』脚本家)、足立正生(のちのパレスチナゲリラ)、沖島勲(のちの『まんが日本昔ばなし』脚本家)、荒井晴彦(のちの『映画芸術』編集長)らが才能とエネルギーを爆発させていく姿を、実在した女性助監督・吉積めぐみさんの視点から描いている。
1969年から71年にかけて「若松プロ」で助監督として多忙な日々を送るめぐみ役に若手演技派として成長著しい門脇麦、若松孝二役には『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(07)や『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(12)に出演した井浦新をキャスティング。そして本作を企画したのは、『凶悪』(13)や『孤狼の血』(18)など骨太な犯罪映画を次々と放っている白石和彌監督だ。キャストと監督名を聞いただけで、ハンパな青春映画ではないことが分かる。「若松プロ」が低迷期にあった1990年代後半から晩年の黄金期への序章となった『17歳の風景』(05)まで若松監督のもとで助監督を務めた白石監督が、本作に込めた想いを語った。
──役所広司と松坂桃李が共演した東映映画『孤狼の血』も、今回の『止め俺』も、どちらも抜群に面白い。ヤクザ刑事から新人刑事がデカ魂を受け継ぐ『孤狼の血』と、ヤクザ監督から若い世代が創作熱を受け継ぐ『止め俺』はテーマ的に共通するものがありますね。
白石 ハハハ、そうかもしれません。同じ監督が撮っているものなので、通じる部分はどうしてもありますね(笑)。確かに『孤狼の血』は先輩が残してくれたものを後輩が受け継ぐ物語ですし、今回の『止め俺』は元ヤクザの映画監督・若松孝二の中からひとりの少女が何を引き出し、どう自分のものにしていくのかを悩むという内容です。それは僕自身が20年前に「若松プロ」に入った頃に感じていたことでもあるんです。1960年代でも90年代でも、若者の悩みは変わらない。めぐみは僕の分身なんだという想いで撮っていましたね。
──若松監督は交通事故が原因で2012年に亡くなったわけですが、このタイミングで映画化を思い立ったのはなぜでしょう?
白石 今年の10月17日が若松さんの七回忌ということもありますが、若松さんの生誕80年(2016)に足立正生さんをはじめとする「若松プロ」出身のレジェンドたちが集まったトークイベントがあり、それがすごく面白かった。僕にとって「若松プロ」で過ごした日々は青春時代でしたし、足立さんたちレジェンドにとっても青春だったわけです。みんな目をキラキラさせながら語っていたんです。自分が「若松プロ」で経験した失敗や喜びは、23歳の若さで亡くなっためぐみさんも体験していたんだなぁと思うと、居ても立ってもいられなくなった。若松さんたちはピンク映画を撮りながら、「俺たちは世界と闘っているんだ」と叫んでいたわけですよ。今の若い人たちには滑稽に感じられるかもしれませんが、無性に愛おしい時間だったはずです。これは、どうしても映画にしたいと思ったんです。
■ヤクザ映画が時代劇化する現代への違和感
──『凶悪』のヒット以降、白石監督は映画界注目の売れっ子監督に。メジャー系の仕事をするようになった今だからこそ、撮りたかった企画のようにも感じます。
白石 それは大きいですね。『孤狼の血』のようなビッグバジェットの作品も任せてもらえるようになってきたんですが、どうしても大きな映画って、多かれ少なかれ様々なしがらみを付いてくるわけです。今の時代は、コンプライアンスだとかポリティカル・コレクトネスなどにも気を遣わなくてはならず、映画づくりにおいて表現の自由が難しくなっています。ここで、もう一度自分の原点に立ち返ってみたいという気持ちが強かった。僕の師匠だった若松孝二はピンク映画という超弩級のインディーズ映画で、好き放題やった監督です。最近の自分はメジャー映画もやるようになってきたけど、自分のアイデンティティーって何だろうと考えたとき、絶対にそっちだなと思えたんです。
──『孤狼の血』はかなり振り切った作品のように思えましたが、それでも今の時代にヤクザ映画を撮ることは容易ではなかったようですね。
白石 昔と違って、今はスタッフもキャストも、ヤクザを取材することは出来なくなっています。菅原文太さんたちがヤクザ映画に出ていた頃は、芸能人がヤクザとリアルに兄弟分になったりしていた。映画の撮影する際には、地元のヤクザにお願いして、他の組が邪魔しないように配慮してもらったりもしていたわけです。
──若松監督は映画界に入る前、それこそ下っぱヤクザとして、映画のロケ現場に立ち会っていた……。
白石 若松さんは撮影現場のガードマンをしている間に、映画製作に興味を持つようになり、ヤクザから足を洗ったそうです。今の映画界はそういう繋がりはもうなくなっています。でも、今の若い俳優に対して「深作欣二監督の『仁義なき戦い』(73)を観ておいて」と伝えるだけで役づくりを済ませていいのかとも思うんですよ。ヤクザ映画はもはや時代劇化しつつある。誰もリアルな侍は見たことがないわけですが、それに近いところにヤクザ映画も来ているように感じています。本当はそうじゃないはずなのに、そう思わざるを得ない状況に映画界はなってきている。僕の意図するところとは関係なく、キャスティングが決まることもある。ここでもう一度、自分の原点を見つめ直したかった。若松さんたちが自由に映画をつくっていたスタイルを、今の時代に取り戻したかったんです。
■無名時代のビートたけしも出演していた!?
──「若松プロ」のあった原宿セントラルアパートに集まる顔ぶれがすごい。大和屋竺(大西信満)、足立正生(山本浩司)、沖島勲(岡部尚)、小水一男=ガイラ(毎熊克哉)、秋山道男(タモト清嵐)、荒井晴彦(藤原季節)……。ちなみにガイラさんは、北野武監督とは新宿のフーテン仲間だったそうですね。
白石 今回の映画では描いていませんが、ガイラさんとたけしさんは新宿の同じジャズ喫茶でバイトしていて、めぐみさんとも懇意にしていたそうです。めぐみさんは『新宿マッド』(70)のエキストラとしてたけしさんに声を掛け、出演しているみたいなんです。確かめようと何度か見直したんですが、まだ見つけることができずにいます(苦笑)。たけしさんは友情を忘れない方で、20年後にガイラさんが監督した『ほしをつぐもの』(90)にも出演しています。
──撮影が終わって夜の新宿へ繰り出せば、大島渚(高岡蒼佑)や赤塚不二夫(音尾琢真)たちと酒を呑み交わし、創作について熱く議論しあう日々。めぐみさんが助監督をつとめたのは3年足らずですが、とても刺激的で濃厚な時間を過ごしたようですね。
白石 あの時代の1日に受ける刺激は、現代の数倍はあったんじゃないかと思います。憧れるし、とても面白い日々だったと思いますが、体力の消耗もすごかったでしょう。当時の若松さんはピンク映画とはいえ、年間に7~8本ほど監督し、プロデュース作も2~3本あった。めちゃめちゃな生活ですよ。さらに夜は大島渚監督が率いる「創造社」のスタッフたちから議論を吹っかけられていた。さらに「若松プロ」でも、助監督たちは隙あらば若松さんの足元をすくおうと狙っていた。「若松プロ」は決して仲良しサークルではありませんでしたから。当時の新宿は文化の最先端で、1968年には新宿騒乱やフォークゲリラも勃発しています。予算の都合で充分に描くことはできませんでしたが、そういった夜の街がはらんでいる猥雑さみたいなものも映画の中に取り込みたいなと思っていました。
──刺激的な毎日を過ごす中で、主人公めぐみは優秀な助監督へと成長していくも、初めて監督に挑戦したデビュー作が思うような出来ではなく、挫折を味わうことにもなる。
白石 挫折感はすごかったと思います。でも、彼女はまだ22~23歳だったわけですから、もう少し続けていれば違った見方もできるようになったと思うんです。僕もそうなんですが、めぐみさんにとっては初めての社会が「若松プロ」だった。後輩に脚本の書き方などを教えることがあるんですが、ト書きや台詞の書き方といった技術を教えることはできても、「じゃあ何を描くのか」という部分は教えることができないわけです。根っこの部分は自分で見つけるしかない。劇中で若松さんが「お前がぶっ殺したい相手は誰だ!?」とめぐみに向かって怒鳴っていますが、あの台詞は僕も言われたものなんです。ぶっ殺したい相手、つまりお前は何を描きたいんだということ。それはいつの時代でも変わらないものだと思います。ただひとつ僕から言えることは、失敗しても映画をつくり続けることで、それは段々と見つけることができるものなんです。僕もそこに至るまでに、かなりの時間を要しました。めぐみさんは、そこに行き着くことができなかった。それが残念です。
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