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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 横浜銀蝿・翔が語る、バンド誕生秘話

横浜銀蝿・翔、還暦記念で60曲熱唱ライブを敢行! 史上最強のロックンロールバンド誕生秘話

 1980年、リーゼントにドカンという不良まんまの姿でブラウン管に登場し、世の大人たちの眉をひそめさせる一方、若者たちを熱狂された、嵐、翔、TAKU、Johnnyの4人組バンド「横浜銀蝿」こと正式名「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL(TCR横浜銀蝿RS)」。

 実は同バンドにとって、2018年は記念すべき年だという。

 というのは、周囲からの要望とメンバーの想いから、嵐、翔、TAKUの3人で横浜銀蝿を再結成したのが1998年。そこから今年は20周年を迎え、さらにボーカル&ギターの翔は還暦(60歳)になったのだ。

 これをきっかけに、9月23日に記念コンサートを実施することになったが、前売りチケットは即完売という人気ぶりを見せつけた。音楽ジャンルが多様化し、リスナーの嗜好も細分化している時代だからこそ、ロックンロールのど真ん中を突っ走り、万人を惹きつけた横浜銀蝿が再評価されているのかもしれない。

 そんな横浜銀蝿の顔ともいえる翔を、雑誌「サイゾー」の連載陣でもあり、翔の熱烈なファンである、出版プロデューサーの高須基仁が直撃した。

 横浜・戸塚区を拠点に活動していた不良たちが、なぜメジャーデビューしたのか。あの独特なスタイルは、売るために仕組まれたものだったのか、それともガチだったのか。今だからこそ聞きたい横浜銀蝿の真実――。

――デビューしたときは衝撃的でした。

 中2くらいから音楽を始めて、高校生のときにJohnnyと知り合って「ロックンロールをやろう」ということになり、俺の兄貴の嵐さんがTAKUを連れてきて、1979年に横浜銀蝿を結成。カセットテープに曲を入れて、レコード会社や事務所に売り込みに行って、ユタカプロダクションの当時の社長が拾ってくれた。事務所が決まってもレコード会社が手を挙げてくれなければデビューはできない。校内暴力が社会問題となっていた時代。こんな不良たちの音楽なんて、普通誰も売りたいと思わないでしょ。ところが、楽曲を聴かせたら何社も手を挙げてくれた。

 その中でキングレコードを選んだのは、俺たちが「自分たちが作ったオリジナル曲しか歌わない」と言ったら、キングだけが「本当にオリジナルを書き続けられるのか。年間200グループ近くデビューする中で、年末まで名前が残っているのはいくつもない。それでもやっていける自信があるのか」と正面から答えてきたから。嵐さんが「俺たちに厳しいことを言ってくれるヤツに付いていったほうがいい」と決めた。不良のカンですね。俺たちはアルバム曲も含めて全部オリジナルです。西城秀樹さんの「セクシーガール」や中森明菜ちゃんの「少しだけスキャンダル」など、楽曲提供もいろいろとしているんです。

――デビューが決まってからは順調だったんですか?

 いや、毎晩バイクで走っていたヤツらがいきなり芸能界に入ったもんだから、なかなかたいへんでしたね。事務所に入ったもののアルバムに収録できるいい曲がなくて、1年近くレコードが出せなくて。「銀蝿、おまえらにしか歌えない曲はないのか」と社長に言われて奮起。「ぶっちぎり Rock’n Roll」をつくって社長に聴かせたら「よし、アルバムを出すぞ」と即決。1980年9月にアルバム『ぶっちぎり』とシングル「横須賀Baby」の同時発売でデビューしました。

 業界のことも全然わからないからレコーディングもたいへんでしたね。俺らは途中で誰かが間違えたら、また頭からやり直してた。何回も何回もやり直し。一発録りだと思ってたから。ふつうは間違えても止まらなくていいんですよ。何回か録って、いいところだけつなぎ合わせられるから。そんなことも知らないから、ディレクターは「こいつら何やってるんだろう」と思ってたでしょうね。

 あと、暴走族の集会にカセットテープレコーダーを持ちこんで、エンジン音を録音。「この音をレコードに入れてくれ」とディレクターに頼んだりもしました。そんな質の悪い録音をアルバムの盤面に入れられるわけがない。でも、ちゃんとステレオ音声が出るように作業してくれて、「ぶっちぎり Rock’n Roll」の冒頭に入れました。それを聴いた全国の暴走族のやつらは「この音は本物だ。横浜銀蝿っておもしろいやつらだな」と思ってくれたらしい。

 スタッフの方はみんな文句ひとつ言わないで、俺たちの好きなことをやらせてくれた。それが結果的にヒットにつながった。「こいつらの遊びに乗っかってやろう」というやさしい気持ちと厳しい面の両方がありました。

――翔さんの、そのつぶれた声はいつからですか?

 高校時代から。強面なんで甘すぎる声じゃおかしいと、わざとつぶしました。年齢を重ねたらいい感じになってきたけど、レコード会社の人に聞いたら、危険なボーカルのつくりかたらしいです。のどから血が出るまで声を出していたから。一歩間違えたら声が出なくなる。

――リーゼントにドカンというファッションはネタだったですか、ガチだったんですか?

 ガチです。俺たちは“つくられたグループ”じゃない。暴走族をしていたフリをしているんじゃなくて、本当にそういうことをしてきた。リーゼント、ドカン、革ジャン、サングラスは俺らから提案したもので、事務所から「着なさい」「不良っぽくしなさい」と言われたわけじゃない。逆に社長からは「1年中そんな格好でいられるのか?」と言われたくらい。「おう、やろうじゃないか」と、俺らは家を出るときからあの格好で電車に乗って仕事に行ってました。地元・戸塚のヤツらは売れる前からそんな俺らを見ていて、ある日突然テレビに出たから町は大騒ぎに。不良時代は、いろいろ迷惑かけましたね。

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