メディア批判を語る前に読め『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』
#雑誌 #出版 #昼間たかしの「100人にしかわからない本千冊」
この本を読む前に、Amazonかどこかで見てほしい作品がある。村木良彦による『わたしの火山』。1968年1月にTBSで放送されたドキュメンタリー。
つくるべきは、鹿児島を舞台にした紀行番組だったハズ。でも、出来上がったのは、まったく違う番組。
語り手である二十歳になったばかりの女性・聖恵子の語りで物語は進む。
「その日、わたしの心に突然『火山を見たい』という思いが浮かんだ」
訪れたのは、鹿児島。そして、桜島へ。
「ワタシノカザン、ワタシノカザンはドコニアルノ……」
少女は情熱や希望を桜島の中に見いだしていく。
紀行番組だと思ってチャンネルを回したお茶の間はどうだったろう。視聴者の側の感想は知らないが、局の首脳陣から大目玉を食らったことだけは聞いたことがある。
1960年代末。いまだ、黎明期を抜け出て模索の続くテレビという新たなメディア。そこに携わる彼らが考えていたのは「テレビにはなにが可能か」ということ。
今、この本『お前はただの現在にすぎない』(田畑書店、朝日文庫)を予備知識なしに読んでも、理解は困難。著者であり、後にテレビマンユニオンを創設する村木のほか、荻元晴彦、今野勉の青春のほとばしり。そして、デモ隊のプラカードを運んだことで問題となったTBS成田事件の顛末。それらを通して「テレビにはなにが可能か」という本質的な問題が、この本では綴られていく。
でも、結論は出ない。
そりゃそうだ。この本は著者たちが「テレビはこうだ!」と主張する本じゃない。いくつかの事件の流れ、ティーチインや討論会で語られた、そのままの言葉。それらを通して読者に突きつけていく。
「テレビにはなにが可能か」
そして……
「あなたにはなにが可能か」
とにもかくにも厳しい本である。
21世紀の今の視点から振り返れば、こんな見方もできる。この時、突きつけられた「テレビにはなにが可能か」が放棄された結果が「マスゴミ」と揶揄される現状を生み出しているのではないか。
もちろん、そんな面もあるやも知れぬ。でも、そんな評論などいらぬ。
テレビだけではない。あらゆる表現からは、いつしか失われているものがある。
「なぜ、なんのために、私は筆を執り、キーボードを叩き、あるいは演奏したり撮影したりしているのか」
きっと誰もが漠然とゴールを設定している。
でも、それは、まやかし。きっと、表現する人が目指すべきところは、もっと見えない先にあるのじゃないか。でも、それは考え、考え抜いた先ではないと見えてはこない。
(文=昼間たかし)
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